楽園の歳月

宮迫千鶴

思わぬブログ読者からメールを戴いた。

 いつまでも元旦の若いお巡りさんを載せておくわけにはいかない。元旦?そうか、そんなに日数が経ってしまったのか、2月も末ではないか・・・。まったく。

 気を取りなおして、またブログモードに入れるといいのだが。谷川晃一さんから、昨年亡くなったパートナー宮迫千鶴の遺稿集を送っていただいた。千鶴さんの葬儀に伺えなかった事情は、昨年、彼女の突然の死のあとで、ブログに書いたような気がする。

 先週、何かの用事で谷川さんからお電話をいただき、何かの用事の「何か」を思い出せないのが情けないが、これからはメールで連絡を取りあいましょうということになり、それから、ほとんど毎日のように、彼からは「伊豆高原のお便り」、私からは「千駄木通信」の件名で、高校生のごとく、やりとりがはじまった。

 私が画家の谷川晃一さんに初めて会ったのは、1971年頃、私が銀座の画廊に丁稚として働いているときだった。私は21歳、谷川さんは私より一回り上の寅年だから33歳だったことになる。そろそろ彼は71歳、私も来月59歳になる。嘘のようだ。

 生意気盛りの私は、しょっちゅう井の頭線・池の上の彼の家に遊びに行った。崖の下の家で、崖を這い登ると、垣根の向こうに何やらピカピカと光る金属の部品が散乱していた。駒場キャンパスの東大宇宙工学研究所で、「こないださぁ、ロケットの打ち上げに失敗したじゃない、あそこでトンテンカンテン作ってるロケットだったんだね、あれじゃ飛ぶわけないよねぇ」などと話したことを覚えている。

 みんなでヨーロッパ旅行をしたのはいつだったか、1975年ころだったと思うが、どの「みんな」だったか記憶が定かでない。フィレンツェの安宿で、「なんだかホテルの感じが怪しいね、たぶん最後の日に荷物から金目の物を盗られるから、一日早くチェックアウトしよう」との谷川さんの推測を聞き入れ、予定よりも一日早くフィレンツェを離れた。

 1988年に谷川・宮迫夫妻が東京を離れて、伊豆高原に移住してから、暫くのあいだ、私も頻繁に伊豆へ行った。北川(ほっかわ)温泉が佳いから行こう、行こう、と、海岸にポカリと穴が開いているだけの温泉に三人で行き、葦簀掛けの更衣所から千鶴さんがバスタオルをぐるぐる巻きにして出てきて、ザブンとお湯に入った。潮騒に手の届くような距離で、うっすら雲のかかった伊豆の海の、波が荒い日だった。

 私には、人生の師と呼ぶべき人が何人かいるが、むろん谷川晃一さんもそのひとりだ。あのころ、本当に生意気盛りだった私を、一人前扱いしてくれたのも彼だけだったような気がする。ここ十年余り、伊豆高原へ遊びに行く機会を逸し、数年前、練馬区美術館で「谷川晃一・田島征三・宮迫千鶴三人展」が開かれたとき、会場に訪ねたのが最後だった。それから、千鶴さんの訃報だった。

 送っていただいた「遺稿集」をぱらぱらとめくって数編読んだ。突然の発病と三か月後の死。経緯をはじめて知った。どんな事情でも葬儀には行くべきだった。

 昨日の「伊豆高原のお便り」によると、最近移住したと思しき中西夏之さんと、ご近所の田島征三さん(『力太郎』などで知られる絵本作家だが)、それにときどき鎌倉から加納光於さんがやってきて、あれやこれやと時間を過ごしているらしい。「こどものとも」の向こうを張って「老いのとも」という雑誌を作れと福音館に申し入れているらしいが、「ジジィのとも」にした方が良いのではと言ったら、いや、本人たちは客観性を一切持たず、若いと思っているのでそれはマズイと返事が返ってきた。

 宮迫千鶴遺稿集『楽園の歳月』も、題名は『あら、死んじゃったわ』にしようと思ったらしいが、出版社が、いくらなんでもそれは、と拒否されたらしい。

谷中の夕暮れ 3


浅草右の写真は、いささか滑稽だが、正月元旦、浅草寺にピア・ミュラー=タム博士と初詣に出かけたとき、長い時間を待ちに待って、次は寺内に上がれるというグループになった時のものだ。若いお巡りさん(曽根史郎だったか、「若いお巡りさん」を唄っていたのは。も〜しもし、ベンチでささやくお〜二人さん、は〜やくお帰り、日ぃも暮ぅれ〜る〜。野暮な説教するんじゃないがぁ、ここらは近頃ぶっそうだ、話〜のお続きも、あ〜したにし〜たら〜、そろそろ広場の灯も消えるぅ〜。という歌だった。昭和31年のヒット曲、私が青戸小学校に入学した年だ。)が、斯様な看板を持って立っていた。

 先ほど「正月三賀日」というブログを載せてから、あらためて自分のブログを見てみたら、12月初旬にちょぼちょぼと書いてから、年末までブログを書いていない。案の定アクセス数もぐっと減り、12月は毎日30〜40人程度、これではお客が逃げてしまう。せっせと真面目なことを書かねば。

 言い訳がましいが、12月はとても余裕がなかった。27日から展覧会の展示作業が始まるので、それまでに済ませなければならない要件がいくつも重なった。

 まず雑誌「PEN」の原稿。1月15日発売号で今回開催の展覧会情報に沿ってクレーの記事を掲載してくれるので、11月末にベルンまで取材旅行に同行したことはたぶん以前に書いたとおりだったが、記事を書かなければならなかった。私の記名原稿はほんの一部だったが、キュレイター林が書いた作品の解説や本文を推敲するのは私の役目、責任でもある。

 次に、Bunkamura「ピカソとクレーの生きた時代」展のための音声ガイドの原稿があった。おそらく40枚。名古屋でスタートした同展には名古屋仕様の音声ガイドがあったが、東京と名古屋ではいささかの温度差があり、また、東京展音声ガイドのナレーターは、J-ウェイブのチョー人気ナビゲーター秀島史香さんにお願いすることにしたので、私は褌を締め直してその執筆に当たった。原稿はしつこい箇所もあるが、評判は決して悪くはない。

 それが済むと、今度はブリヂストン美術館ホールでの「クレーの詩 クレーの音楽 Part2」の準備。友人のヴァイオリニスト小林クロードに頼んで、彼が主宰する「アンフィニ・サロンオーケストラ」の精鋭三人とトリオを組んでもらい、クレーの日記、手紙などからテキストを選び、朗読と音楽のプログラムを組んだ。曲はリヒャルト・シュトラウス、バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューマンなどの名曲アンソロジー。テキストとの組み合わせはなかなか苦心を伴い、それでも一応格好のつくプログラムを制作して、私は3日前からテキスト朗読の練習を始めたが、部分入れ歯の裏側が舌に触ってサ行がうまく読めず、かなり苦労をした。本番が12月23日だった。切符がなかなか売れず、友人知己を頼った。

 本当は12月19日が〆切だった『クレーの食卓』(講談社)の私の原稿は「クレーと市民社会」という実に真面目なもので、これは結局、茅場町のビジネスホテルに缶詰になって仕上げることにした。クリスマスイヴとクリスマス当日の二泊三日。吉野屋の牛丼で力を付け、書き上げてから自分へのご褒美でデニーズでステーキを食べた。45枚(食べたステーキではなく原稿の枚数だ)。

 最後に、『新訳 クレーの日記』(みすず書房)の編集協力ノート。優れた翻訳者(高橋文子)を得てようやく『クレーの日記』の、40年振りの新訳を出版することになったが、これも相当にプレッシャーがかかって一応書いてはみたものの、まだまだ合格点ではなく、推敲を重ねている最中だ。一両日中には仕上げないと本気で叱られる畏れがある。現実逃避のためにブログを書いている。

 『クレーの食卓』に載せる小文「クレーと市民社会」は、2年ほど前から頭のなかで漠然と考えていたテーマをこの機会に文書化(言語化)することを期したもので、出来の善し悪しはともかく、書きながらいろいろ新しいことに気付いた。将来、これを一冊の本にしてみたいと思った。かなり勉強しなければならない。第一、市民社会の定義が困難である。クレーが生きた時代、特に第一次世界大戦から第二次大戦までの10年間というもの、ヨーロッパ市民社会は多くの問題を内に抱えながらも、いやそれだからこそ論議が盛んだった。ホセ・オルテガは「私」と「私たち」という概念を使って個人と社会の諸問題を際だたせ興味深い問題提起をしている。

 ところで「若いお巡りさん」だが、私は冒頭で若いお巡りさんと書いたところ、その歌が頭の中で回りはじめた。小学校一年生の時だったが、よく忘れずに歌詞を覚えていたものだ。もののついでに2番、3番の歌詞をウェブで調べてみた。

1.もしもし ベンチでささやく お二人さん
  早くお帰り 日が暮れる
  野暮な説教 するんじゃないが
  ここらは近頃 物騒だ
  話の続きは 明日にしたら
  そろそろ広場の 灯も消える

2.もしもし 家出をしたのか 娘さん
  君の気持ちも 分かるけど
  くにじゃ父さん 母さん達が
  死ぬほど心配してるだろう
  送ってあげよう 任せておきな
  今なら間に合う 終列車

3.もしもし 景気はどうだい 納豆やさん
  今朝も一本 もらおうか
  君の元気な 呼び声きけば
  夜勤の疲れも 忘れるぜ
  卒業するまで へばらずやんな
  まもなく夜明けだ 日も昇る

4.もしもし タバコをください お嬢さん
  今日は非番の 日曜日
  職務尋問 警棒忘れ
  あなたとゆっくり 遊びたい
  鎌倉あたりは どうでしょうか
  浜辺のロマンス パトロ−ル

 世相というか、昔の歌は社会学的にみると実におもしろい。そういえば、一昨年の年末は「年忘れ!日本の歌」に夢中になりブログにそんなことばかり書いていた。「カスバの女」など出色だったが、この「若いお巡りさん」の歌詞も、分析していくといろいろなことが見えてくる。

 2番の「今なら間に合う 終列車」は泣かせる。戦後10年、上野公園の階段には傷痍軍人がまだたくさんいた。家出少年少女は、子どもの私の目にもすぐにそれと分かった。毎年盆暮れになると、父は東京土産がたくさん入った大きなバッグを担いで郷里の猪苗代に帰ったが、いつも父の後をついて、京成電車から国鉄の駅まで上野の地下道を足早に歩いた。さすがに『蛍の墓』に描かれているような浮浪児は、その頃には街から姿を消していたが、浮浪者(ホームレスピープル)はごろごろしていた。駅の周辺に、如何にもあか抜けない服装の、田舎から家出してきたばかりの少年少女がいたものだ。

 3番。納豆売りが当時とはいえ、学資の足しになったかどうかはきわめて疑問だ。作詞の曖昧さが残る。ただこの歌は警察官のプロモーション・ソングなので、朝も昼も、夜明け前の町もパトロールしていますよ、という意味で真冬の納豆売りの時間を書き込んだのであろう。私は小学校5年の冬休み、友達の店を手伝って納豆売りをやったことがある。まだ暗いうちに店まで行き、自転車の荷台に納豆を乗せて、公団住宅や都営住宅を売り歩いた。「納豆屋さん!」と声を掛けられると自転車を止め、カラシを付けるかどうか聞いて、ハイと言われれば納豆の筒を開いてカラシをへらで付けた。寒くはあったが楽しかった。

 4番の歌詞は現在ではいささか問題になるかもしれない。たばこ屋の看板娘に気があるのはわかるが、近年、警官が若い女性の家に押し入って事件を起こしたことがあった。稀な事件であったから警察官全体に及ぼすイメージが失墜してまことに気の毒なことでもあった。

 余談が過ぎたが、掲載した写真は上述のように、元旦、浅草寺に初詣に出かけた際、人の整理に当たっていた若いお巡りさんが平和な笑顔を見せていたので思わず携帯カメラに収めたものだ。ヘラルド・トリビューンのフロントページは毎日、四川大地震の後遺症に悩む家族、子供を失ったガザ地区の母親、アフガニスタンの少年兵、そんな写真ばかりだ。

正月三賀日

浅草寺

例年とはずいぶん違うお正月を過ごした。

 1月2日から渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「ピカソとクレーが生きた時代」展が始まったので、暮れは30日まで展示作業が続き、それに合わせて来日したノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館の館長代理ピア・ミュラー=タム博士のアテンドが重なった。気の毒なことに、彼女はもっと普通の時期に来日すれば、仕事の合間を縫ってあちこちと見物して歩けただろうに、日本の年末年始は特別で、いろいろと提案することができなかった。

 それでも、日帰りでいいから京都に行きたいと言うので、みどりの窓口に切符を買いに一緒したら、3日、4日は帰省客リターンのピークでまったく席がないことが判り、それも諦めた。

 そこで私は義侠心を出して、正月三賀日をできるだけべったり彼女と付き合うことにした。元旦は浅草に初詣に出かけた。(写真)地下鉄銀座線を出てから、浅草寺に上がるまで約2時間、数百人の警官が実に手際よく参拝客の列を整理して、しまいには仲店の小路をだらだらと進むので、途中、飽きることもなく、「日本人とは何か」を話しながら待っていたのでミュラー=タムは満足げであった。

 2日は展覧会の初日なので、私も現場を離れることができず、午前中は展覧会場で彼女に様子を見てもらったりしたが、午後は武蔵野美大の田中先生がご案内を引きうけてくださり、上野の西洋美術館、東京国立博物館、夕食までご一緒いただいた。昨日お礼状をお出しした。

 3日は、京都に行けなかったせめてもの慰みに鎌倉に出向いた。彼女を迎えに新橋に向かう山手線で、横浜美術館のY館長にばったり、むかしはお正月から美術館に出ることなんか考えられなかったんだけどねぇ、といささかお疲れ気味であった。ポケットからすっと「セザンヌ主義」の招待券を出して2枚くださった。こちらは「ピカソとクレーの生きた時代」展チケットの持ち合わせがなく申し訳なかったが、そうしたものは常に持ち歩き、ポケットからすっと出さなければならないのだと反省した。

 前日、鎌倉まで行くのでひょっとしてお邪魔しても宜しいでしょうかと、鎌倉在住の知人に連絡を取った。どうぞどうぞ是非お寄りになって、と親切な返事が返ってきた。聞くところでは彼女の家のおせち料理はつとに有名で、なんとも幸運なことである。

 北鎌倉で降りて、圓覚寺に上がった。さすがに正月の横須賀線はチョー満員でグリーン車でなければとても向かえなかったが、北鎌倉でもまだ降りる人はまばらで、みな八幡様に行くらしい。
 圓覚寺境内は実に穏やかでひっそりとしている。だらだらと参詣客に混ざって、いろいろな建物を訪ね歩いた。若いお嬢さんが三人、晴れ着を着てわれわれの前を歩いていたが、ミュラー=タム女史はキモノに夢中で、どうやって着るのだとか帯はどうなっているのだとか、私も皆目わからないわけではないが、詳しく説明することもできず困った。山肌の岩をくりぬいた座禅場や茅葺きの庵、社など、彼女は美術史家らしく、また初めての来日に備えて日本関連の本をしっかいr読んできたとみえて、とても的確な見方をしていた。

 国宝の鐘楼へ上がると、山の背に遠く富士の頂上がみえた。年末からずっと良い天気が続き、それだけは彼女にとっても幸運だった。東京の街も空気が澄んでいた。ドイツの寒さに比べれば、年末年始の好天は彼女には春先のような暖かさだと言っていた。

 北鎌倉からふたたび電車に乗って鎌倉まで来ると、八幡様側の出口にはまだまだ人の波で二進も三進もいかない風だったが、われわれは市役所側に出て、銭洗弁天を目指した。知人の家も銭洗弁天のすぐ近くなので、まずは弁天様にもお参りして、それから知人を訪ねようと急な坂道を登った。
 弁天様の境内はかなりの人混みで、たわむれに100ユーロ札でも洗ってもらおうかと思っていたが、とても長蛇の列に並ぶ気はせず、彼女はこの風変わりな信仰を面白がって写真をパチパチ撮っていた。

 友人宅のおせち料理は聞きしに勝る質と量!ご親戚やご友人が次々にやって来て、われわれはその中に混ぜていただいた格好だ。かててくわえて、同席にいた知人の若い友人・大樹君はサンフランシスコ在住で英語が良くできるので、私はしばし通訳から解放され、お邪魔していた三時間というもの、ただ飲んだり食べたりに専念した。お庭で採れた野菜の美味しかったこと。お煮染め、伊達巻き、海老、蓮根、田作り、栗きんとん、サーモン、黒豆、ローストビーフ、とても覚えきれないほどのご馳走だった。大樹君は気の毒に、ミュラー=タム女史の相手を私から託され、彼女にお料理を取ったり正月料理の謂われを説明したりしている。私はただ美味しい美味しいと言って食べる一方である。

 鴨の肉と鶏肉をすり身にして混ぜ合わせ、伊達巻きのように巻いた逸品があった。何もかも私の知人と彼女のお母様の手作りだが、この逸品は彼女が以前皇居で召し上がって再現を試みているのだそうだ。知人は、かつての某有名大臣のお嬢様で、お母様はその奥様ということになるが、皇居にお呼ばれでそれを召し上がったらしい。だがまだ、似て非なるものであるという。

 ふーっと酔いを醒ましながら、暗くなった道を鎌倉駅まで帰ってきた。今月半ばにはサンフランシスコに戻る大樹君も一緒に電車に乗った。これから銚子の実家まで帰るという。サンフランシスコ美術館にはクレーの良い作品があるので、そう遠くない将来かならず訪ねると約束をし、新橋で別れた。

 こうしてミュラー=タム女史の日本滞在は、当初の予想を裏切って、なんとも充実したニッポンのお正月ということになった。知人宅のお料理のお陰で、なんとも充実したお正月は私の方かもしれないが。

騎士と死と悪魔

Duerer

冬のやはらかな日射しは今日も西側の窓ガラスを照らしていた。

 

 実は三日ほど前から、西側の窓を日が照らす時間まで起きられないでいる。またしても時差なのだ。逆らわずに昼夜逆転の時間に従うことにした。

 

 デューラーの版画「騎士と死と悪魔」は私が二番目に好きな作品で、むかしハンブルク美術館で求めた精巧な複製画が、ここ20年あまり何度も引越を繰りかえした仕事場の何処へ行っても、机の正面(または脇)の壁に飾ってある。なぜデューラーのなかでこの作品が好きなのか(二番目にだが)、未だに私自身には判らない。もちろんその隣に、一番好きな「メランコリアI」がある。これは母親を思い出させるからだ。私の母親その人ではなく、母性といったものだ。ひょっとすると「騎士と死と悪魔」は父性への想いだろうか。

 

 フランクフルトのシュテーデル美術館を訪ねたのは、企業秘密だが、デューラーの版画展準備のためだった。版画素描部門の責任者ドクター・マルティン・ゾンナーベントは実に感じの好い研究者で、今回私は初めてお目にかかったが、なんというか、余計なことを言わなくても考えていることが良く通じる勘のいい人物だった。展覧会計画の話のあと、彼はわれわれを自室に招いてくれ、最近購入したというクレーのドローイング(1940年)を見せてくださった。作品は裸で額縁にも入れていない。紙の縁が折れ曲がっているのはクレーがわざわざ折ったためでダメージではないと、その道の人を私は気取って、ゾンナーベント博士に伝えた。

 

 いろいろな動機が重なって、私はデューラーの版画展、それも全作品展を企画したいと数年前から考えていた。だが全作品となると、小さなエンブレムのようなものまで含めて約300点に及び、全作品展の意味はあまりない。そこで、独立した版画作品として制作されたものから100余点ほどを選び、彼の創作時期を通して見られるような質の高い展示を考えることにした。

 

 日本でデューラー版画を展示してもはたして来場者はいるのだろうかと、シュテーデル側は心配したが、私に良い考えがあると返した。かつて当ブログで紹介したことのあるデューラーの『ネーデルラント旅日記』(岩波文庫青571-1 前川誠郎訳)が念頭にあった。同じく前川先生が訳されたデューラーの手紙や資料を拝読すると、デューラーという人物はお金にうるさく、且つ自己PRやプロモーションに周到であったことがうかがえる。つまり西暦1500年代のニュルンベルクに生きた《近代人》なのである。

 

 『ネーデルラント旅日記』は、年金の支給を時の神聖ローマ帝国新皇帝カルロス五世に誓願すべく、妻アグネスと侍女を伴ってはるばる(現在の)ベルギーまで旅をした際の出納帳なのだが、行く先々の有力者に版画を献呈し、自分の望みが叶えられるよう外堀を埋めている。マルティン・ルターが逮捕されたという誤報を信じて、突如「出納帳」に冗長な祈りを記述するなど、狡猾なエラスムス(フォン・ロッテルダム)と違ってどこかすっとこどっこいな面を覗かせ、まったく憎めない人物像を彷彿とさせる。

 

 デューラーはともかく天才だが、上述のエピソードなど、展覧会のレイアウトはネーデルラントへの旅を辿りながら、彼の人物像と時代背景を鑑賞のナビゲート役に使うというのが私のプラン(これも最重要企業機密だ)。ゾンナーベントは私の案にかなり興味を示した。

 

 キュレイター林が、午後、デザイナーの須貝重太を訪ねて長い打ち合わせをして帰ってきた。重太から『ぼういず伝説』というCDを貰ってきたらしく、事務所でガンガン聴いていた。

 

 ♪

 地球の上に朝がくりゃ〜ぁぁ〜、

 その裏側は夜だろぉぉ〜!

 

 なんのことはない、川田晴久とあきれたボーイズのライブ録音CDではないか。重太のスタジオでずっとこれを聞きながら仕事をしていて、すっかり気に入ってコピーを作ってもらったらしい。私もこれを聴きながら、ときどきケラケラ笑いながら、「デューラーとその時代」という企画書の真面目な文書を書いた。

 

 さて今年の大晦日は念願の「年忘れ!日本の歌」に行けるだろうか。


訂正

 すみません。昨日のブログで「クレーの宇宙」がパリとニューヨークに巡回すると書きましたが、それは間違いで、巡回するのは「カンディンスキー展」でした。訂正してお詫びします。

NOTICE: An information in my blog of yesterday that the exhibiton of Klee in Berlin will travel to Paris and New York next year is completely misunderstanding of mine. It never go there. Sorry. Instead, Kandinsky goes.

谷中の夕暮れ 2

Brendel


冬のやはらかな陽が、午後のあいだ窓を照らしていた。

 先週の火曜日、フランクフルト・アルテ・オパーにブレンデルを聴きにいった。アルフレート・ブレンデルは私の好きなピアニストのひとりで、ずいぶん昔、日本公演を聴いたことがある。リスト(?)の「鳥に話をする聖フランシスコ」が出色であったことを覚えている。

 当夜、つまり先週の火曜日は、今年引退を表明したブレンデルのさよならリサイタルだったが、彼は方々でさよならコンサートを開き、数十回におよぶらしい。当夜のプログラムは

      ヨーゼフ・ハイドン ヴァリエイション ヘ短調
      ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト ソナタ 第15番
      ルードヴィヒ・ファン・ベートホーヴェン ソナタ 第13番

                  −休憩−

      フランツ・シューベルト ソナタ 変ロ長調

 青戸小学校の音楽室の壁に貼られていた音楽家肖像の順序のままだ(バッハが抜けているが)。さよならリサイタルであるから、私はこのように西洋音楽史保守本流を弾き続けてきたのですというブレンデルのメッセージであろう。

 あまり良い出来ではなかった。良いコンサートを形成するのは 1.演奏の出来 2.曲目 3.聴衆 の三要素で、1.の演奏の出来がよくなかった。最初の3曲は、どのように音楽を作っていこうかという意思はとてもよく分かったが、彼が作ろうとしている「音楽」のとおりに指が動かない。「こんな音楽が作りたいんだ」と彼の声は聞こえるが、ピアノがそれに応えない。

 休憩後のシューベルトは、それでも、演奏家の適わぬ演奏技術を越えて美しく響いた。(こんな生意気なことを言っていいのかと私は自問するが、シロートだから何を言っても許されよう)シューベルト最期のソナタで、歌曲の名手らしく美しい主題が展開しながらも、突然、低音部のゴワゴワという「死の不安」を思わせるフレーズが闖入する。これはおそらく、ブレンデル自身の心象風景であり、あるいはその演出だ。

 その日の朝、ベルンを発ってバーゼルのティンゲリー美術館に立ち寄ったあと、汽車を乗り継いでブレンデルのリサイタルに何とか間に合うようフランクフルトに向かった。ホームページではすでに切符は売り切れていた。私の経験上たいがい、演奏会直前に会場に行けば、都合で演奏会に行けなくなった人が売ってくれる。ドイツではダフ屋が厳しく取り締まれているから不当に高く買う畏れはない。

 案の定、定刻の30分前にアルテ・オパーに行ってみると、品の良い老婦人が切符を手に持って私たちのように当日切符を求めてやってくる聴衆を捜していた。迷わず彼女から切符を譲ってもらった。

 アンコールは3曲。最後のバッハがとてもよかった。私たちに切符を譲ってくれた老婦人は、実は一族郎党5,6人を引き連れて演奏会に来ていたのだったが、来られなくなった家族がいたらしく、その分を転売したようだ。演奏会が終わって、くだんの夫人が私を見つけて「演奏はいかがでしたか?」と私に聞いた。「先ほどはどうもありがとうございました。そうですね、彼の全盛期に比べれば、やはり力が落ちていると思いました」と答えた。「そうね、あの頃に比べるとね・・・」

 ベルリンで友人宅の夕食に呼ばれたが、食事をしながらフランクフルトの一件を私は持ちだした。

「ぼくはこれまでブレンデルを3回見たことがる。」と私が言った。
その夕食に招かれていた画家のマティアスが「彼のさよならリサイタルはベルリンでも今年何度も開かれたよ。」と首を左右に振りながら言った。
「最初は東京で、『鳥と話をするザンクト・フランシスコ』がすばらしかった。そして昨夜のフランクフルト。でも2度目に彼を見たのは、コヴェントガーデンに『ペレアスとメリザンデ』を観に行ったとき、たまたま隣に座っていたのがブレンデルだった。最初はウッディ・アレンかと思ったんだけどね。でもあれはブレンデルだったな。」
「肘をツンツンして聞けばよかったじゃないか、あなたウッディ・アレン?それともブレンデル?って」

 写真はフランクフルト、さよならリサイタルのカーテンコールに出てきたアルフレート・ブレンデル。遠い席から携帯カメラで撮ったので、いったい何の写真なのかさえ判らないが、中央のマッチ棒のような形態が老ブレンデル氏。

谷中の夕暮れ 1

Beuys Berlin


一昨日ドイツから戻った。

 先月20日から、雑誌「PEN」の取材でベルンに数日間滞在したが、同行したキュレイター林と、その足でドイツを駆け足でまわった。フランクフルトで「フランドルの巨匠たちとロジャー・ファン・デル・ヴァイデン」(シュテーデル美術館)、「Takashi MURAKAMI」(近代美術館)、ベルリンで「パウル・クレーの宇宙」(新国立美術館)、「ヨーゼフ・ボイス」(ハンブルガー・バーンホフ)、ミュンヘンで「カンディンスキー」(レンバッハハウス美術館)。

 さすがに疲れた。短期間で五つの展覧会はきつい。写真はベルリンのヨーゼフ・ボイス展、入館者に撮影が許されていたのはこの展覧会だけであった。何やら天井から大きなものが吊り下がっているが、これは普段、フランクフルトの近代美術館に展示されているボイス最大のオブジェで、フランクフルトでは必ず観に行くのだが今回は村上隆の大展覧会で不在、ベルリンに来て再会した。こんなものをどうやって運んだのか。

 展覧会はどれもこれも圧倒的な印象だった。各地で友人知己を訪ねた。戴いたり購入したカタログや書籍が15冊、とても持って帰れる量ではないからベルリンから郵送した。

 出色はシュテーデルで観た「フランドルの巨匠たち」。ファン・デル・ヴァイデン、ファン・エイク、それに無名のマイスターを前にすると、近代美術や現代美術など吹っ飛ぶ。何故か。

 ベルリンのクレー展は260点。本気ではとても観られない。キュレイター林は本気で観て、へたりこんでしまった。来年5月から日本で開催する「クレーと東洋美術展」に貸出をリクエストした作品が何点も飾られていた。みな断られたが、なるほど、これでは貸出は無理だ。当展は来年から世界ツアーで、パリのポンピドー・センター、ニューヨークのグッゲンハイム美術館に巡回する。そのどちらかを再び観ることになるだろう。

 ミュンヘンの「カンディンスキー」ももの凄い。ABSOLUT. ABSTRAKTと副題が付いている。バウハウス期以降、特にフランスに移住してからのカンディンスキーは、これまで私はあまり好きではなかったが、観るべき作品にいくつも出くわした。来年1月2日から渋谷・Bunkamuraザ・ミュージアムで開かれる「ノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館所蔵 ピカソとクレーの生きた時代」展に出品不可能となったカンディンスキー2点は、この展覧会に貸し出されている。納得した。

 デュッセルドルフのノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館の館長を昨年末まで務め、彼の決断がなければ日本での展覧会は無理だったが、現在は故郷ミュンヘンに戻ったアルミン・ツヴァイテから昨夜メールが届いた。私たちがミュンヘンにいた日、彼はロンドンに出向いていて会えなかったことへの残念メッセージだったが、カンディンスキー展の初日、開会式には800人もの招待客が押し寄せ、とても作品をゆっくり観てもらう環境ではなかったと嘆いている。たしかに、私たちも朝10時の開館時間前に行ってみたら、路上に設置された入場券売場にはすでに長蛇の列ができていた。

 2時間ほどをかけてじっくりと観たが、帰りがけ会場の中を見渡すと、立錐の余地もないほどの大混雑になっていた。おもしろかったのは、オーディオガイドのイヤフォンを耳に当てた多くの人が、絵などは見もせずに、その場に立ちつくしてじっと解説に聞き入っていたことだった。ドイツでも、カンディンスキーは理知的な「理解」を強要する画家とみえる。そうではない、カンディンスキーほど絵画的な画家は希だ。

 私は1970年代のある夏、北ドイツの小村ヴォルプスヴェーデに三か月滞在した。2年後にもふたたび三か月、あわせて半年間そこに住んだことになるが、村のはずれにあるアトリエハウスという普段は画家を住まわせる施設に特別に滞在を許された。村で画廊を開いていたクラウス・ピンクスと妻のロッテ・ツェトーの計らいによるもので、それから間もなく、彼らは冬の厳しい寒さを嫌って南部のシュタウフェンに移住した。

 ベルンでの仕事が終わって、五つの展覧会を訪ねるべく汽車でスイスを発ったが、国境を越えてしばらく行くと、車窓からシュタウフェン城のある丘が、わずかにそれと見分けられる距離に眺められた。その町にクラウスとロッテを訪ねたのは20年以上も前のことで、直後にクラウスは亡くなった。その後、クラウスの墓参りにシュタウフェンまで行ったが、彼の後を追うようにロッテの訃報が届いたのは2年くらい経ったころだったか。ライン川に沿って走る鉄道の、フライブルク駅から車で20分ほどの距離にあるシュタウフェンへは、ロッテが亡くなった直後、クラウスと並んで埋葬された墓が、まだ真新しい土が盛り上がって、春を待って花々を植えようとしていたそのとき以来、訪れることがなかった。バーゼルから北上して、いつもその辺りを通過する列車の窓から、天気が良ければシュタウフェンの丘を遥かに眺めるだけで過ごしてきた。

Staufen

 表題「谷中の夕暮れ」は、金沢の友人出島二郎が来春から制作する小冊子に連載を書けとのリクエストで、旅行中、ページのレイアウトを送ってくれたが、それに書かれていた連載の仮タイトル。

読字障害

マケインTシャツ


こんなオヤジの写真など見たくもあるまいが、ジョン・マケイン氏のために掲載する。
バラク・オバマTシャツよりデザインがずっとスマートで安くて丈夫。

 史上初の黒人大統領か最高齢の大統領かと話題を呼んだ選挙が終わってから2週間近くが過ぎた。ヒューストンから戻って、例によって私は数日後から時差が出はじめ、先週は訳の分からない時間帯を彷徨した。近くの99ショップで売っている「すぅーっと美味しい清酒」ワンカップ2本を開け、BBCラジオを聞きながらhttp://www.bbc.co.uk/worldservice/ 日曜日の夜、原稿仕事を後回しにしてゆらゆらとブログを書きはじめた。

 先月、ブログでは痛い目にあったのでなかなか書き続ける勇気が湧かない。ヒューストンの時差がどうなってしまうのか分からないまま、今週木曜日からベルンに出張する。その後ベルリンへ。この時期ベルリンはひどく寒い。ベルリンの友人に宿舎の提供を頼んだが返事がない。ベルリンではクレーの回顧展「パウル・クレーの宇宙」と「ヨーゼフ・ボイス展」が開催中だ。

 BBCニュースは経済危機とオバマ次期大統領、イラン、イラク、アフガニスタン、莫大な経済支援策でもこれから毎月800ドルを30年間払い続けなければならない住宅ローンをどうすればいいんだ!というニューオーリンズのハリケーン被災者のインタビューなど・・・。

 ところで表題の「読字障害」とは聞き慣れないことばだが、先夜、テレビで同名のドキュメンタリー番組を観た。画面にでてきたのはアメリカの恐竜学者(古生物研究者)。彼は読字障害で字が上手に読めない。上手に読めないと言うより、文章を解読できない。受け取ったメールをあらためて入力し、音声に換えてそれを聞く。それではじめてメールの内容が分かる。
 日本人の青年もでてきた。彼も字が読めない。17歳のときロンドンに留学して建築学を学び、いまは日本に帰国したが、来年からパリの高名な建築家事務所に助手として勤めるという。

 歴史上、読字障害者として知られるのはピカソ、自動車王フォード、電話の発明者ベルなどと紹介されていた。読字障害は脳のメカニズムで起こると、脳科学者が説明する。

 字を読むことは、人間の脳の中でメカニズムが発揮される作用で、もともとヒトに備わった機能ではないという。字を読むことは、視覚から入ってくる記号(文字)を一度脳の中で音声に変換し、それをヒトは理解する。音声に転換する脳内の部分(第39,40室とかいっていたが)、読字障害者はそこが十全に働かないのだという。これらは左脳の言語野という分野で行われる。

 読字障害者は、しかし、左脳の言語野の機能が十分に発揮されていないとき、反対側の右脳に活発な作用がみられる。凄いものだ、現代のテクノロジーは人間の脳の活性部位をモニターで観察することができる。このとき、非読字障害者にはみられない右脳の働きは、立体物を把握する異常な機能で、普通の人は自分の視点から、つまりA点からしか立体物を見ないが、右脳のその異常な働きは、別の視点B点やC点から同時に立体物を見ている。

 なるほど、ピカソが読字障害であったのは納得できる、と私はそのとき思った。キュビズムである。

 番組に登場したアメリカの恐竜学者は(名前を覚えておくべきだった)、恐竜化石の発掘現場を見ると、恐竜の姿形がはっきり見えるばかりか、彼らの生態まで解るという。つまり平面的な情報から立体的な情報を把握する。それまで恐竜は爬虫類の仲間だとされてきた説を鳥類だと断定したのが彼だった。イギリスで建築学を学んだ日本人青年も、文章を上手く読めないが、建物のユニークな空間構成がすぐに頭に浮かんでくるらしい。

 おそらくブラックもそうだが、ピカソのキュビズムが、そうした特殊な能力から生まれ出たのであろうという推測は、目から鱗が落ちる思いだったが、間違ってならないのは、それはピカソの作画のメカニズムであって彼の芸術の理解とは別のものだということ。

 クレーにはそうしたことがない。彼は無類の読書家であったから読字障害である筈はない。クレーの絵画は「空間」ではなく「時間」の芸術だ。このことについては雑誌「éclat」エクラ(12月26日発売2月号)にキュレイター林の原稿で触れる。(彼女は講談社『クレーの食卓』に掲載する料理写真の撮影を明日、明後日に控えて、昨日から自宅のキッチンに引きこもってしまったようだが、水曜日までにエクラの原稿が書けるのだろうか)

 オランダの版画家M・C・エッシャーがカラーブラインド(色弱、色盲)であったことは私たち関係者にはよく知られているが、ひょっとして彼も読字障害ではなかったか。あの空間把握は障害者でなければ無理だ。

ワシントンDC

 飛行機の都合で帰りはワシントン経由になった。

 メニール・コレクションでの用事が済み、金曜日は「ヒューストン美術館」を丹念に見てまわったが、さすがに石油関連のお金持ちが多いとみえ(デ・メニール家もそうだが)、展示物の内容はヨーロッパの美術館とさして変わらない。中世の祭壇画から現代美術まで非の打ち所がないといっていい。結局、タックスクレジットなのだ。絵画を寄付すれば相続税などの優遇を受けられるシステムが、アメリカの美術館を充実させてきた。

 ヒューストン美術館で感心したことのひとつは、寄贈者から受けた作品のなかで、あまり有名ではない画家のものが、その時代の代表的な画家の作品に並べて展示され、無理なく時代的美術の文脈に組みこまれていることだった。ある程度の基準は設けられているだろうが、寄贈者はタックスクレジットの恩恵をも目的としているのだから、教科書に載っていないような画家の作品も美術館には受けてもらいたい。おそらく収蔵庫には、とても展示に耐えられない絵画がたくさん眠っているはずだが、それでもキュレイター諸氏はいろいろと工夫して、時代的に意味のある作品を選び出し、大家の絵の横に並べて整合性を見つけ出していく、そんな苦労というか、研究というか、キュレイターの苦心の跡が滲み出ている。いささか感心すると同時に、私には大いに勉強になった。

 アメリカだから当たり前だが、1945年以降のアメリカ美術に見るべきものが多い。ヒューストン美術館は四つの建物からできている施設だが、それでも飾りきれない作品が廊下や階段室の壁に申し訳なさそうに掛かっていた。入館者は目もくれずに通りすぎて行く。ポロックの50年代の力作やフィリップ・ガストンの秀作、リベラ、シケイロス、フリーダ・カーロといったメキシコ組も、トイレ近くの廊下に掛けられていた。これはあまり感心しない。

 とまれ、ヒューストンの休日を楽しんだあと、土曜日の午後、私はワシントン行きの便に乗り、当地で一泊、日本に帰る飛行機を待つことにした。ヒューストンとワシントンとのあいだには1時間の時差がある。国際線は出発時刻の3時間前に空港に行ってくださいとホテルのフロントで言われ、ワシントン時間に時計を直し、用心をして朝6時半に目覚ましを掛けたが、実は今朝方、夏時間から冬時間への切り替えがあって、目覚まし時計が鳴る1時間前に目が覚めて起きたら、実際にはまだ4時半だったようだ。二重の時差に翻弄された。テレビを付けるとどのチャンネルもオバマ、マケインのラストスパートの話題にかまびすしい。

 そういえば、昨夜ワシントンに着いて空港のショップをふと見ると、マケインTシャツが50%Offで売られていた。ヒューストンで買ったオバマTシャツは25ドル(もちろんキャンペーン寄付金付きだ)、ワシントンではマケインTシャツが2枚で17ドル。ワープロで「まけいん」と打って変換すると「負けいん」と出てくる。

アメリカ大統領選

Houston


ヒューストンは小春日和、と書いた途端に、さだまさしの無縁坂が聞こえてきた。あまり望ましくはないが・・・。

 

 水曜日の朝、成田を発った。シカゴで飛行機を乗り換え、ヒューストンに到着したのは当日の午後2時、時計は3時間余りしか回っていないのに実質17時間かかった。ホテルでスーツに着替え、夕方、メニール・コレクション(美術館)に向かった。ヨーゼフ・ヘルフェンシュタインとは5年ぶりの再会である。

 

 彼はもともとベルンのクレー財団主任研究員だったが、8年前に財団を辞め、アメリカに渡った。それでもときどき、何かの用事でクレー財団にやってきた彼と、私は偶然顔を合わせた。彼が中心となって、クレーの大回顧展を日本で開いたのは1993年のことだからヨーゼフとの付合いも20年ほどになろうか。イリノイ州の小さな大学で数年間教えたあと、ある日突然、メニール・コレクションの館長に抜擢された。ベルンを離れてよかったと正直わたしは思ったものだ。

 

 その後の彼の活躍はめざましかった。メニール・コレクションから毎回送られてくる展覧会招待状を手にするたびに、そうだ、いつか彼を訪ねなければと思い続けたが、なかなかその機会は得られなかった。ニューヨークの行きか帰りに立ち寄る機会を狙っていたのだが余裕はなかった。残念なのは、昨年のことだったか、ラウシェンバーグの展覧会初日、彼とラウシェンバーグの対談というイベントが催されたとき、資金と時間さえあればその日にメニール・コレクションを訪れたかったが果たせなかった。ラウシェンバーグの訃報に接したのはそれから一年後のことであった。

 

 水曜日の夜、マックス・エルンストの小展覧会オープニングに先立ってレンダーズ・ディナーがあるからその日に来てくれとヨーゼフから連絡があった。ある展覧会企画の相談で私はどうしても彼に会う要件ができて、今度こそヒューストンに訪ねたいと夏の初めころ手紙を書いたことへの返事だった。レンダーズ・ディナーとは、展覧会に作品を貸し出してくれた所蔵家を招いて開かれる前夜祭である。

 

 木曜日はヨーゼフとの会議を終えてから、数時間を掛けてメニール・コレクションの隅から隅までを丹念に見てまわった。フランス出身の富豪デ・メニール夫妻が集めたコレクションは個人の収集品として特筆に値する。有り体に言えばクラクラする。ヨーゼフが会議のあとで収蔵庫も見せてくれた。ドミニク・デ・メニール夫人とは、まったく偶然のことだったが、1980年代の終わり頃だったか、私と親しかったニューヨークの画商と彼女が一緒にオークションの会場に来ていたとき一度だけ挨拶をしたことがある。まるで絵に描いたような老貴婦人であった。今回の展覧会ではじめて観たのだが、事実、マックス・エルンストが彼女を絵に描いていた。

 

 メニール・コレクションについてはまたの機会に詳しく書くことになるだろう。エルンスト、マグリット、デ・キリコなどシュルレアリストの作品を多く所蔵するが、今まで見たこともないクレーが何点もあった。

 

 テキサス州ヒューストンは掴み所のない街だ。町の中心部というものがない。中心部らしきものが幾つか、市のあちこちに散らばっている。写真は、中心部のひとつダウンタウンをホテルのバルコニーから遠く眺めたもの。昨夜もヨーゼフが夕食に連れていってくれたので、今夜、ヒューストンで初めてひとりの食事になった。市電に乗ってダウンタウンまで行ったが、街に灯りはなく、ゴーストタウンのようだった。途中、電車から見えた一軒のレストランまで引き返し、あまり上等ではないポーク・テンダーロインを食べてから、帰りは線路に沿ってとぼとぼと歩いてホテルまで帰ってきた。路上にたくさんのホームレスピープルが眠っていた。

 

 今夜はハロウィーン・パーティー。ホテル階下のレストランから若者たちの大騒ぎが聞こえる。子供たちへの土産に、昼間、バラック・オバーマのキャンペーンTシャツを買った。



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