矢野健太郎先生の思ひ出

 日曜日、仙台に日帰りした。

 展覧会に借りていたクレー作品2点を、宮城県美術館にお返しに上がった。折から仙台市内では、全国大学女子駅伝を開催中で、市内の道路が規制され、なかなか美術館に近づけないという予期せぬ出来事に遭遇したが、無事、作品はお返しした。

 上野の地下駅から東北新幹線に乗って、日暮里のあたりで地上に出てしばらく行くと、山手線と京浜東北線が分かれるところがある。三角形の台地で、家がびっしりと建て混んでいる。たしかその辺りに矢野健太郎先生が住んでおられた。

 矢野健太郎といっても、若い世代の人には馴染みがないかも知れない。『代数入門』、これが名著であった。岩波新書(?)に入っていたはずだ。中学生になった頃、つまり算数から数学に変わるとき、この本で勉強した。学校でではない、放課後、近所の中学生を集めて私塾(無料)を開いていたKさんが私たちに数学を教えるのに、これを愛用した。

 息子が中学生になったとき、私はそれを思い出して『代数入門』を探してみたが、とっくの昔に絶版になっていて、当時、東大の国文学にいたジャイコ(むろんニックネームだ)に頼んで、大学図書館でまるごとコピーを取ってもらった。息子が活用したかどうか、よく覚えていない。

 中里の矢野健太郎先生の家をお訪ねしたのは、1975年頃だったと思う。私は妙に興奮した。中学のとき『代数入門』に出会って以来、その本の著者に会えるなどとは考えもしなかったせいだろう。展覧会プロデューサの駆け出しだったが、日本で最初のM・C・エッシャー展を開いた時のことだった。展覧会図録にご執筆いただきたと矢野先生にお願いにあがったのだ。位相幾何学のことをあれこれと話して戴いたことを覚えている。

 名門・都立墨田川高校で使っていた教科書も著者のお一人が矢野先生だった。墨田川高校の数学教師M氏も矢野先生門下であった。ただしM先生は授業中、俳句などは575、17文字の順列組み合わせで総ての俳句が出来てしまい、従って文学などというものは有限であり、数学は無限だなどと、たしかに事実だが、実にトンチンカンなことを真顔で言っているような滑稽な人物だった。

 『代数入門』の思い出や母校の数学教師M先生の話題などもして小一時間、私は矢野先生と時間を過ごした。後日、原稿を戴きにも行った。つまり二度、先生のお宅にお邪魔したのだった。東北新幹線の窓から、ふと中里の家並みを眺めたとき、その思い出がよみがえった。

 矢野健太郎先生はたしかヴァイオリンを弾いておられた。日本のロケットの父・糸川英夫博士はチェロを弾いておられたのではなかったか。外国に旅行されるときは飛行機の座席を二席買って、一席はチェロを置いたという話を何度か聞いている。

 右脳と左脳なのである。私の勝手な想像のなかでは、数学者・矢野健太郎先生がヴァイオリンを弾いておられたのは、趣味というより、弦楽器の数学的なシステム(弦の長さがピッチを決めるのだから)を通じて、右脳を働かせることに情熱を感じておられたのではないかと思えるのである。

 『ピアノ・ノート』(チャールズ・ローゼン著、みすず書房)が実に面白い。私にとって、音楽の『代数入門』だ。

 

谷中の夕暮れ 6

横須賀

谷中の夕暮れとは如何にも侘びしい。特にタイトルを思いつかないときは、いつもこれにするのだが、もう少し元気が出るような題名を考えよう。

「パウル・クレー 東洋への夢」が終わった。10月18日、横須賀美術館での最終日、閉館と同時に撤去作業を開始した。当初、来日を予定していたパウル・クレー・センターの修復家ミリアム・ウィーバーが急病で来られなくなり、代理でシュテファン・フライが来日した。結局彼は、千葉市美術館から始まった当展覧会の展示や撤去作業のため延べ4回も日本に来たことになる。

 シュテファンは実に厳格な男で、どの会場でもピリピリしていた。18日に展覧会が終わり、21日の午前中にはチューリヒ行の飛行機に積み込まなければならないタイトなスケジュールだったから、横須賀の最終日、閉館したあと夜中まで作品のコンディション・チェックをする羽目になった。翌日も朝から夕方まで作業を続け、その日、無事に都内の美術品倉庫に運び入れ、通関を済ませて予定どおり21日の早朝、成田空港に作品を運んだ。

 慣れているとは言え、急遽の来日だったからシュテファンも疲労困憊したに違いない。私も負けないくらい疲れた。だが、横須賀美術館での作業では、ときどき建物の外に出て、上の写真のような海景を眺めながら過ごしたので、気持ちの晴ればれとする時間でもあった。

 国内や海外の美術館で、海に面した場所に建てられたものはいくつかあるが、横須賀美術館の環境は出色だ。目の前を航行する船の多くは貨物船で、けして美しい姿ではないのだが、船体に書かれた文字をひとつひとつ読んでいると、これはどうやら北欧に向かうらしいとか、シンガポールに向かう船だとか、休憩時間、シュテファンとカフェに並んで座り、想像力たくましく話し合っていると、えも言われぬノスタルジーに襲われた。ハンブルグ、ブランケネーゼを思い出す。

横須賀美術館

 キュレイター林がクレー協会を退職した。今日の午後、関係者には挨拶状を発送した。

 彼女にはこの5年間、多くを助けられた。2002年、鎌倉の神奈川県立近代美術館で開かれた「パウル・クレー 旅のシンフォニー」展のとき、彼女はクレー協会を知って会員となり、ニューズレターの制作などに手を貸してもらうようになったが、5年前、私の仕事を手伝うようになった。ユニークな発想の持ち主で、彼女がいなければ『クレーの食卓』は生まれなかった。残念だが仕方がない。さらばキュレイター林。谷中の夕暮れである。

ブルーノ・ワルター

聖アボンディオ教会

台風が近い。戦後二番目に大きな台風だというが、では一番目は何だったのか、キティ台風かな?と私が言うと、ナンですかそれ?と事務所にアルバイトに来ているAさんが言った。

 某出版社の編集者Jさんと、女子中学生のようにメールをやりとりした。今朝一番で入っていたメールには、台風が近いですね、このムラムラした感じの天候、好きです、とあった。ムラムラした天候?ムラムラは刑事訴訟法でいう性犯罪の加害者供述調書用語でしょ、最近はこのようなことを述べてもセクシャル・ハラスメントになる可能性があるので気をつけなければならない。

 ムラムラは、暇な私が広辞苑で調べると、「斑斑(むらむら)し」なる古い形容詞で、色が濃淡さまざまである、むらである、転じて心がむらで定まらない様子をいうとある。なんだ、いわば印刷用語ではないか。

 そのむらむらしき写真を上に掲げたのも他でもない、スイス南部の村モンタニョーラ近郊にある聖アボンディオ教会なのだが、此処の墓地にヘルマン・ヘッセが眠っている。初めてヘッセの墓に詣でたのはかれこれ20年も前のことのように記憶するが、そのとき、簡素なヘッセの墓地の近くにたいそう立派な墓があり、ブルーノ・ワルターと墓碑銘があったので、おやまあ、ワルターもここかと思った。もちろん手を合わせた。

 クレーとはほぼ同年代の名指揮者は、1910年代、ミュンヒェン宮廷歌劇場で活躍していたのでクレーもワルターの指揮でオペラを観ていたに違いないが、クレーの日記にワルターの名前が出てきた記憶がない。インデックスを調べてみなければ。

 ベルリン生まれ。マーラーの愛弟子で、作曲家でもあったワルターは、ユダヤ人としてその時代に翻弄された。1939年、ベンヤミンやクレーが亡くなる前年、ワルターはアメリカに亡命した。ビバリーヒルズに住んだが、近隣には同じく亡命芸術家のトーマス・マンが居た。

 今年の夏、キュレイター林がベートーヴェン第6交響曲「田園」にハマった。ウィーン在住の知人、林千尋さんから戴いたご自身が指揮をしたスロベキア交響楽団のCDを、キュレイターは毎日、朝から晩まで事務所でかけっぱなしだった。あのなあ、ハマるのはいいが、たまにはほかの曲でも聴いたらどう?と言いたかったが、私は黙っていた。

 私にも青戸(私の生地だが)の家の二階で、毎日「田園」を聴いていた思い出があるからだ。中学生の頃だっただろう。(どうもこの話題は一度ブログに書いたような気がする。書く方も読む方も後期高齢者に近いから、何度書いても気が付くまい)すでにLPレコードだった。コロンビア交響楽団を振ったワルターの名盤だ。ジャケットがカラー(というより天然色写真)の、それこそムラムラしきワルターの顔だった。

 この録音は間違いなくCDにも起こされているはずだから、どこかで見つけようと思っていた。事務所近くの「ブック・オフ」をときどき覗くのだが、ある日、ワルターではなく、カラヤンの「田園」を500円で売っていたので早速買ってきて、林千尋さんの「田園」と交替、しかしカラヤンには柔らかさが無い。「田園」は柔らかくなければ。カラヤンのしかし音楽の構成主義とも言うべき構成は、見事なもので、この大曲の隅々が見えてくる、否、聞こえてくる。でもカラヤンは6番じゃなくて3番(英雄)だな、が私の感想である。

 昨日、ふたたびブック・オフに行った。今度はワルターの「田園」があった。950円。私はいそいそと事務所に戻り(残念ながらキュレイター林は8月末から休んでいる)、ワルターを聴いた。だが待てよ、これは青戸の二階で聴いていたものとは違う。そう思ってライナーノーツを改めて読んだら、これは1936年にウィーン・フィルを振った録音で(もちろんモノラール)クレーがまだ生きていた時分のものではないか。私が聴き馴染んだコロンビア交響楽団・ワルター指揮の「田園」は、ディスコグラフィーで調べてみると、1958〜61年に録音されたステレオ版(?)で、なるほどそれであれば、発売間もないレコードを母が買ってくれて中学生の私が毎日聴いていたストーリーに整合性がある。

 昨日買い求めたウィーンフィル版にライナーノーツを書いておられる宇野功芳さんとは、以前どこかで知遇を得てお話しをさせて戴いたが、ワルターを殊のほか評価しておられ、そうそうその通り、と読んでいる私の顔がつい笑みを浮かべてしまう。後年の、つまり私が聴き馴染んだワルターの「田園」は、一部にアメリカナイズドされてしまったとの批判もあるようだが、そうは思わない。ロマン主義音楽の最高峰、第5番を作曲した後で、ハイリゲンシュタットの森を散策しながら作られたこの第6番は、ついウィリアム・ターナーやコンスターブルの風景デッサンを思い浮かべさせるのだが、音楽はワルターその人を連想させる暖かみに満ちており、最晩年を迎えた大指揮者の成果なのであ〜る。懐かしのワルター「田園」コロンビア交響楽団版は、今日にでも渋谷のHMVに行けば買えるが、近所のブックオフに出るまで待とう。

 ところで、1962年にビバリーヒルズの自宅で亡くなったブルーノ・ワルターが、南スイスの教会に葬られていることには疑問の余地がある。同姓同名か?墓碑銘をしっかり読んでくるのだった。しばらくヘッセの村モンタニョーラには行っていない。ジルバー・ヘッセに今春会ったとき、モンタニョーラのヘッセ記念館の隣に「カフェ・モンタニョーラ」という新しい施設がオープンしたから、次回、一緒にモンタニョーラに行ってみないかと言っていたので(彼は月に一度くらいの割合で記念館に出掛ける)、帰りがけ、聖アボンディオ教会で車を止めてもらうことにしよう。ほんとうに、あのワルターの墓所なのかどうかを調べるために。

ヴォルプスヴェーデふたたび ふたたび

Hamburg Hbf

東京はすっかり涼しくなった。

 以前にもドイツの鉄道駅の写真を載せたことがある。これは9月14日のハンブルグ駅。今年の夏まで使っていた中古コンピュータのデスクトップで、DB(ドイツ鉄道)の列車ラインナップが行ったル来たりするアニメーションが動いていた。売り物とは知らず、むかしキュレイター林がミュンヘン駅のラックから持ってきたCDに入っていたプログラムだ。毎日見ていたので、列車の大半を覚えてしまい、外国の駅に来た感じがしない。ドイツのなかでもハンブルグ中央駅は、私の記憶のもっとも古い場所のひとつだ。

 9月17日の当欄に「ヴォルプスヴェーデふたたび」を書き、現地のホテルで書いたので気分が高揚して、私とヴォルプスヴェーデとの関わりは拙著に詳しく記したのでここでは書かないなどと、いささか横柄なものの言い様だったが、それからまた幾つか思い出したこともあり、構えずに、経緯を話しておきたい。

 私は二十歳のとき銀座の画廊に勤めた。クラウス・ヴィレというドイツ人がときどき画廊に現れた。以前、広島大学で教えていた彼はそのころ学習院大学に移っていた。専門は不明だったが、ドクター論文でデューラーの「メランコリア鵯(アインス)の鵯について」を書いたと言っていたからドイツ・ルネサンスだったのだろう。

 私の最初のパスポートを見ると、1972年9月28日の日付で出国印が押されている。(余談だが、私は今でも出国を「しゅつごく」と読んで高橋文子さんにいつも笑われる。余談ついでに、この旅券の渡航地域は北朝鮮、中国、北ベトナム、東ドイツを除くとの記載がある)初めてのヨーロッパだった。もしドイツに行くなら、ブレーメン近郊にヴォルプスヴェーデという村があるから是非訪ねてみたらいいと、ヴィレ先生が教えてくれた。彼の知人でクラウス・ピンクスという人が村に画廊を開いているので、そこを訪ねてごらんなさいと。

 この最初の旅行は画廊のご主人のお伴だったから自力ではない。翌年から自力で行った。ヴォルプスヴェーデという風変わりな名はリルケの著作でよく知っていた。ヴォルプスヴェーデ派の画家たちを論じた風景画論だから、周辺の風景まで図版でよく承知していた。いざ行ってみると、リルケの時代から70年が経ってはいたが、北ドイツの湿地帯の様子は当時のままに思えた。

 それから私のヴォルプスヴェーデ詣でがはじまった。クラウス・ピンクスと夫人のロッテ・ツェトーは村の中央部で「インゼル(島)」という画廊を経営していた。私はブレーメンからバスに乗って、いつもインゼル停留所で降りるのだった。インゼルにはいつも人が集まっていた。ことのほか私を気に入ってくれたクラウスは、その時代遅れとも思えたサロンで、多くの人に私を引き合わせてくれた。そのなかの一人がマルティン・カウシェだった。

 カウシェは、1900年頃から自然発生的に芸術家コロニーとなっていた村の伝統を護るべく、装丁家の仕事を引退した後、村はずれに「アトリエハウス」を建てて、内外の芸術家に半年単位で住居を提供する活動に専念していた。私はこの村に住みたくなり、私自身芸術家ではないが、クラウスやロッテが強く薦めてくれたこともあって、特別に許可を得た。それもこちらの都合で1977年と1979年の夏、三ヶ月づつ滞在できるよう計らってくれた。

 クラウス・ピンクスとロッテは、私の最初の滞在の頃にはすでにヴォルプスヴェーデにはいなかった。湿気の多い冬の気候を嫌って、南ドイツ、フライブルク近郊シュタウフェンに移住してしまっていた。その地でクラウスは1980年頃亡くなり、数年後ロッテも世を去った。それまでに私は何度かシュタウフェンを訪ねた。一度はクラウスの死の半年前、ロッテが一人になってからは二度。そしてロッテが亡くなった直後に二人の墓参りに行った。(それから長いあいだ、フライブルク近くを列車で通過するたびに、また墓参をしなければならないと車窓から撮ったシュタウフェン城のピンぼけ写真をブログに載せたのは、昨年のことではなかったか)

 その後ロッテは遂に、生まれ故郷ヴォルプスヴェーデの土を踏まないままだった。彼女から聞いた話の中でいま一番印象深く思い出すのは、彼女がまだ若かった頃、彫刻家クララ・リルケのアトリエをたびたび訪ねたという話題だ。(9月17日の記事に書いたように、リルケは当地でクララと結婚した)年老いたクララは、アトリエに並べた作品を見せながら、その頃のヴォルプスヴェーデ派の画家たちの話を、とりわけ彼女より2歳年下で若くして亡くなったパウラ・モーダーゾーン・ベッカーの思い出をとぎれとぎれに話してくれたという。私は生まれてくるのが遅すぎた!ロッテのお伴をしてクララ・リルケを訪ね、結婚後まもなく別居してはいるが、夫君ライナー・マリーア・リルケのことやクララの師匠オーギュスト・ロダン、そして31歳で世を去ったドイツ表現派の先駆者(とも見なされる)パウラ・ベッカーのことを直接彼女から聞きたかった。

 ロッテには二人の娘がいる。クラウスの子ではなく前夫の子供だが、姉のバーバラと妹ザビーネ。二人ともミュンヘンとその近郊に暮らしていた。バーバラの旦那様はドイツでは高名な料理評論家のヴォルフラム・ジーベックで、80年代初めころだったか、有力誌『シュピーゲル』が日本特集を組んだとき、来日した彼(バーバラも一緒だった)を連れて私は浅草の「福ちゃん」だの「駒形どぜう」だのと、庶民的なレストランを案内して回ったが、後日、彼が書いた記事のタイトルは「Soja, Soja ueber Alles」(何でもかんでも醤油掛け)という代物でおやまあと思ったものだ。ついでに言うと、これは"Deutschland, Deutschland ueber Alles !"(世界に冠たるドイツ!)のパロディなのだが。

 妹のザビーネともよく行き来をした。夫君オービーはスイス出身のデザイナーで、いつぞや、ヴォルプスヴェーデでザビーネたちと一緒になり、ミュンヘンに帰る車に同乗させてもらったことがある。7時間のドライブだった。翌日、彼らのアパートを訪ねた。昨日車の中で眠りこけていた一人娘のユーリアが、元気いっぱい幼稚園から帰ってきたところだった。ユーリアも今では30歳を過ぎているだろう。

 話はこれからだ。

 昨年のことだった。おい、お前を捜している人がいるから下記の住所に手紙を送ってくれと、アリョーシャ・クレーからメールが届いた。誰あろう、私を捜しているのはバーバラと夫君のヴォルフラム・ジーベックだった。何故またアリョーシャからそんな報せが届いたのか、聞けば数年前アリョーシャが何処かで彼らと知り合い、話しているうちに、むかしよくヴォルプスヴェーデに来ていた「あの青年」が私だと分かって驚いたらしい。サッチ・ア・スモール・ワールド!なのである。

 今年5月、ミュンヘンの「ブラントホルスト美術館」開会式に出掛けた帰りだった。キュレイター林はミュンヘンから一足先に日本へ戻ったが、私は幾つかの用事を済ませるためドイツに残った。そして一日だけ工面してバーバラたちを訪ねた。

 たしかにロッテが亡くなる前、彼女は、バーバラたちがミュンヘンを離れて今はここに居るから機会があったら訪ねてと、私に新しい住所を書いてくれたことは覚えている。だがそれから20年以上、いつしか住所を書いたメモは私の周辺には見えなくなり、またそれを探すことすら忘れていた。バーバラたちが住んでいたのは、クラウスの死後、老齢の母親を慮ってか、実はフライブルクからさほど遠くはない小さな村であった。たびたびバーバラは母親を訪ねていたのだ。そのために近くに住居を移していたのだった。私はその日、小さな鉄道駅に降り立った。バーバラが、むかしと同じ笑顔で私を迎えて強く抱きしめてくれた。それから彼らの住まいへ行った。といっても小高い丘の上にある古い城の一角で、テラスから遠くフランス国境線のあたりまで遙かに平野を見下ろす素晴らしい眺めの屋敷だった。

 ヴォルフラム・ジーベックは80歳になっていた。「駒形どぜう」で、慣れない江戸の醤油味に首を傾げていたのは確かに随分むかしのことだ。「ツァイト・マガジン」が彼の80歳記念号を出していて一冊頂戴した。ここには客室がないので、今夜は美味しい田舎料理の店で食事をして、あなたはそこに泊まればいいわとバーバラに言われ、20分ほど離れた旅籠に案内された。食事をしながら昔話になった。いまザビーネとオービーはヴォルプスヴェーデに住んでいるのよ、とバーバラが言った。あなた、あれからヴォルプスヴェーデに行った?と聞かれた。10年ほど前に、ほんの数時間、マルティン・カウシェに会いに行ってそれきりだと答えた。

 美味しい食事だった。翌朝、宿代を払おうとするとすでにバーバラたちが払ってくれていたことを知った。私はさして大きくもない荷物をガラガラと曳いて近くの鉄道駅まで歩いた。そして次にドイツに来る機会には、必ずヴォルプスヴェーデを訪ねようと思ったのだった。

 7月から8月にかけて南仏への取材旅行があった。それから東京に帰って、8月末、ヴォルプスヴェーデのザビーネに手紙を書いた。私の予定は、9月8日に日本を発って、バウハウスの用事を済ませ、14日から17日までの何処かで彼の地を訪ねるというものだった。しかし残念なことに、その時期ザビーネとオービーはスイスに旅行中でヴォルプスヴェーデには居ないという。仕方ない、またの機会もあるだろうから貴方がたに会うのは次回だと彼らに伝えた。

 そうして私は、先々週の火曜日と水曜日、ヴォルプスヴェーデに二日間を過ごしたのだった。9月17日の記事のとおりだ。私が泊まった宿はザビーネに紹介された彼らの家のすぐ近くだった。ザビーネの生家、つまりロッテが最初の結婚で娘たちと住んでいた家の近くでもあるらしい。宿はブッヘンホーフといい、ヴォルプスヴェーデ派の画家の一人ハンス・アム・エンデの家を改装したものだった。隣にはハインリヒ・フォーゲラーの家バルケンホーフ、夢のような場所だ。宿の女主人としばらく話し込んだ。彼女も当地の人だからロッテと二人の娘のことは良く知っている。まあそんな事情ならまた近いうちにお見えになるのね、ザビーネさんがいらっしゃる時に、と嬉しそうだった。11月から3月まではオフシーズンで客も少なく、その時期に3泊以上すれば宿代が一泊44ユーロ(約6000円・シングル朝食付)になるという。東横インより安いじゃないか。

 二人の女性芸術家、クララ・リルケ・ヴェストホフ(彫刻)とパウラ・モーダーゾーン・ベッカー(絵画)の物語は余りよく覚えていないが、二人は親しかった。クララにはパウラの胸像彫刻があり、パウラはクララの肖像画を描いている。ロッテが隣村フィッシャーフーデに晩年のクララを訪ねたとき、パウラ・ベッカー胸像の原型が、まだアトリエの隅に置かれていたのではないだろうか。31歳の若さでこの世を去ったパウラの展覧会が、数年前、日本でも開かれた。どこかの会場での閉館時間、無理を言って私は駆け足で会場を観た。本展制作者の水沢勉さん(神奈川県立近代美術館)に何度も熱心に勧められておきながら、ゆっくりと観られなかったことを今でも後ろめたく思っている。フォーゲラーの展覧会も東京駅ステーション・ギャラリーで開かれているはずだ。それは観ていない。

 久しぶりにヴォルプスヴェーデ派の作品をたくさん観た。だが何より、必ずもう一度来ようと思ったのは、パウラが息を引き取った家の内部だった。同じくヴォルプスヴェーデ派の画家であったオットー・モーダーゾーンと結婚した後、彼女はたびたびパリに遊学し、後期印象派の影響を強く受けた。裸婦自画像などもある特異な資質は、当時の(まだ歴史に現れたばかりの)女性画家では抜きん出ている。ジャン・フランソワ・ミレーに倣って農民や子供、そしてヴォルプスヴェーデの風景を描いた。パリから戻り、やっと夫のもとに帰った二人に念願の子供が生まれる。だが2週間後、彼女は塞栓症で急死、生まれてきた娘ティリーの顔を、ほんのわずかのあいだ見たきりであった。パウラが描いた絵のなかで私は子供の絵がいちばん好きだ。

腕を組む少女(小)2

 私がヴォルプスヴェーデに滞在したのは、上述のように1977年と79年の二度だったが、その翌年だったか翌々年だったか、かつての我が師(と呼ばせていただくなら)種村季弘が同じくアトリエハウスに半年間住んだ。彼は帰国後『ヴォルプスヴェーデふたたび』(筑摩書房)を上梓した。ヴォルプスヴェーデ物語は本書に詳しく書かれている。

 あのころ、種さん(と我々は生意気にもお呼びした)とハンブルクへ何度か出掛けた。駅前の安宿に逗留して、場末の酒場で覚えたてのワインを飲み、私はクワクワになって部屋に戻り、お互いの大鼾に耳をふさいで眠った。上の、ハンブルグ駅の写真を撮った後、あのとき定宿にしていた"Hotel Popp"が、まだ中央駅の前に構えているのを見て私は驚いた。外壁は綺麗にペンキが塗られていたが、あまりに懐かしくて建物の中に入り、料金表をもらったら48ユーロとかで、部屋はおそらく当時のままだろうと想像したものだった。

夢のつづき

 そんな歌があった。井上陽水だったか、彼の歌詞のどこかに出てきたのか、いや、安全地帯だったか、それとも前川清だったかもしれない。ずいぶん傾向が違うじゃないか、ま、そんなことはどうでも良い。旅の話の続きだ。

Bauhaus_1927


 1927年、デッサウ・バウハウスの階段で撮影された写真だ。真っ黒で顔がよく見えないが、後方、左から二人目が織物工房の指導者グンタ・シュトルツル。バウハウスは当初、混沌とした主義主張、さまざまな、個性の強い人物、少ない予算、それでいて祝祭的な雰囲気の学校であった。

 やがてバウハウスは、学長グロピウスの方針で産業界との連携を図ることになる。最初に成果を上げたのは織物工房だった。記録では、初期はこの部門だけが収支プラスであったという(確認資料に当たって言っているのではないので、いい加減だが)。
 話はそうではない、写真に写った女子学生たちの溌剌とした表情だ。当時流行の髪型をして、全員がなんと活き活きとしていることだろう。ここにいるのは20世紀の女性たちだ。草食系男子など寄せ付けもしない女性性の、朗らかで勁(つよ)い、笑顔が並んでいる。来年開催を予定している「バウハウス・キッチン」展のポスターには是非ともこの写真を使いたい、と私は考えた。(草食系男子と言ったが、事実、バウハウスが開設された1919年以来、学生への食料提供がグロピウスの悩みの種で、ジャガイモといささかの野菜を確保するのがやっとだった。だが教授陣のなかでは神秘的菜食精神主義者ヨハネス・イッテンが指導力を発揮していたから、きっとそれで良かったのだ)

 この時期から「女性の時代」がはじまる。上に「女性性」と書いたが誤植ではなく「じょせいせい」という日本語である。男性性という語もある。(双方とも私はよく使うのだが概念はいささか難しい。)「バウハウス・キッチン」と銘打った展覧会は、バウハウスに於ける女性性を問題にしたいと思っている。バウハウスにおける女性性とは、つまりは20世紀の新しい女性像の問題だ。女性像という言い方は抽象的で正しくはない。もっと正確に言うなら、女性の暮らし方、新しいライフスタイル、殊にキッチンでの作業が能率的に行えるためのデザインがこの時期に開発され、それはバウハウスだけではなかったが、新時代の扉をひらいた。これが展覧会のテーマである。

 だが、上の写真が撮られた翌年、1928年にグロピウスがバウハウス学長を退いてハンネス・マイヤーが新学長に就任すると、マイヤーの共産主義的な空気が学校を包み込んで、女性性は後退することになる。その年、クレーが織物工房に関わっている。

 グロピウスは真のフェミニストだと私は考える。アルマ・マーラーと関係するだろうか。作曲家マーラーの夫人であったアルマは、マーラーの死後、一時グロピウスと結婚している。いやそうではあるまい、その後生涯の伴侶となるイルゼ夫人のためにグロピウスは「グロピウス・キッチン」をデザインしたのだ。1926年、彼がモホリ=ナジ、シュレンマー、クレーやカンディンスキーのために建てたマイスター・ハウスの空間を見ていると、建築学上さまざまな要素が絡み合って建てられた非装飾的建築物なのだが、そこに私は女性性を感じるのである。

 これまで男性性の産物だと考えられてきた近代建築(デザイン)が、どのように女性性を獲得してきたのか、浅薄な知識では言いようがないが、バウハウス校舎階段に居並ぶ織物工房の女性たちの笑顔を見ながらふと考えてみる。

 バウハウス・キッチン展の準備で9月9日(重陽の節句)からベルリン、デッサウ、ヴァイマールを回った。残念ながら相棒のキュレイター林は夏の疲れが出たためか、体調を崩して同行できなかった。それから私はハンブルグへ行った。ハンブルグのホテルで観光案内パンフレットをぱらぱらとめくっていると、下記のようなページが現れた。お懐かしや「ピカソとクレーの生きた時代展」ではないか!

 同展は今年5月神戸で閉幕し、ドイツに返送されたが、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館の改装工事が予定より大幅に伸び、急遽、国内巡回を組んだらしい。ハンブルグ北部のシュレスヴィヒにある古い城を改装して作ったと思しき美術館で、それは開かれていた。行こうか行くまいか迷った。穴の開くほど眺めた絵画ばかりだから新鮮ではない。が、エピローグとして、異国の田舎の美術館で、それらと再び向きあうのも悪くはない。

 ハンブルグからリューベックへ出て「ギュンター・グラス・ハウス」を訪ねる約束があった。そしてその日のうちにヴォルプスヴェーデへ行きたかった。もう一日ハンブルグに留まればシュレスヴィヒに行くことは可能だった。だがその考えは捨てた。ヴォルプスヴェーデに半日でも長くいたかったからである。

Hamburg_Guide

帰国

トイフェルスムーアの道

その夏、泳ぎに通った道はこの道だ。

 ハンメ川を越えて、ここから2キロばかり行った先に、短く草を刈り込んだ土地があった。用水池であろう、そばには沼があった。水は濁っていた。だが村の老若男女がそこで泳いでいた。水の濁りは汚いとは思えず、慣れないながら私もその沼でおよいだ。

 今朝早く成田空港に到着。二日前のヴォルプスヴェーデが嘘のようだ。例によって事務所には郵便物がたっぷり溜まっている。詳細を思い出しながら出張日誌を付けた。

 ブレーメンからオルデンブルグという小さな町に出てホルスト・ヤンセン美術館を訪ねた。生誕90年を記念して大がかりな回顧展を開催していた。私たちが日本でヤンセン展を開いたのは3年前になるだろうか。オルデンブルグからブレーメンに引き返し、汽車を乗り換えてふたたびハンブルクへ。ヤンセン展で力を貸してくれた画商ブロックシュテット氏と食事をしながら戦後ドイツのあり方について話し合ったのは、ヴォルプスヴェーデに行く前、月曜日の夜のことだった。もう一度日本でヤンセンの展覧会を考えたいと伝えると、ちょうどいまオルデンブルグで回顧展をしているから是非寄ってみてくれと言われたのだ。

 カフェ・ヴォルプスヴェーデに食事に出掛ける時刻、ヴァイヤーベルクの西の空が赤く光っていた。私は来年、ふたたびヴォルプスヴェーデに数ヶ月を過ごそうと思っている。

ヴァイアーベルクの朝

ヴォルプスヴェーデふたたび

 makiba


朝早く、丘の道を歩いた。

 

 ヴァイヤーベルク(麦の山)と呼ばれる標高50メートル余りのその丘は、いまは麦など見かけることもなく、人の背丈ほどに伸びたトウモロコシの畑が一面に広がっていた。丘の周囲を道が回っている。道から傾斜した土地の一角に、かつてマルティン・カウシェの家があった。マルティンとは10年ほど前に一度再会したが、そのとき彼はすでに80歳を越えていた。ブレーメンからバスに乗って不意にこの村に来て、むかしよく通ったヘンベルヒの店から彼に電話をすると、びっくりして、一体どこにいるのだと聞かれ、ヘンベルヒ・レストランにいると応えると、彼は真冬の凍てついた道を運転してすぐに会いに来てくれたものだ。手紙ひとつ寄こさずにこの20年間どうしていたのだと、いささか不満そうな顔をしていたが、あの優しい眼で私を眺め、すっかり変わってしまったヴォルプスヴェーデの様子を嘆いてみせた。

 

 ヴァイヤーベルクの道を歩いてみても、マルティンはこの世を去り、あのころ大学の獣医科に進んだ息子のファビアンも、いまはこの村には住んでいない。私はゆっくりと丘の道を歩いた。昨夜、食事から帰る時刻には雨が降り出していたのだが、今朝、雲の切れ間からは清新な日の光が大地にこぼれた。そして午後には空はすっかり晴れ渡った。

 

 今日は休暇だ、と私は自分に言い聞かせた。昨日まで忙しい毎日を過ごしてきたのだから、今日一日は素敵な時間を過ごしたい。昨日、リューベックの「ギュンター・グラス・ハウス」を訪ねた。総選挙が近いので、残念ながらグラス本人はリューベックには不在、ハレ、ドレスデン、ベルリンとSPD(ドイツ社会民主党)の応援団長は各地に選挙応援に忙しい。特に彼自身に用事があったわけではないので、彼の秘書と一時間余り話をして失礼した。帰り途、私はザンクト・アンネン修道院(現在は美術館)に寄った。ハンス・メムリンクの祭壇画に会うためだ。日本ではあまり知られないこの中世画家は、私見だが、フェルメールの真の師匠であり(時代はまったく違う)、その圧倒的な作品のレアリテは、わざわざリューベックを訪れるに価値あって余りある。数年前、ヨーロッパのどこかでメムリンクの展覧会が開かれていた。何かしら用件にかこつけて観に行きたいと思ったが、果たせなかった。だが昨日、リューベックの彼の祭壇画を観たことでその不満というかストレスは見事に解消した。グラスとの再会は果たせなかったもののリューベックに立ち寄った甲斐があった。そうして夕方、ブレーメンまで汽車を乗り継いで、駅前からヴォルプスヴェーデ行きのバスに乗り、ここまでやって来たのだが、変わり果てたブレーメン駅前や新しくできた高速道路に唖然とした。そうだとも、あれから30年も経っているのだ。

 

 丘の道を降りて旧ヴォルプスヴェーデ駅に向かった。私が初めてこの村を訪れたのは1972年のことだ。高校生のころ夢中で読んでいたリルケを慕ってといえば聞こえがいいが、そうではない、偶然ここに来る機会を得たのだった。私は22歳だった。最初のヨーロッパ旅行の時だ。その経緯は拙著『芸術の非精神的なことについて』に詳細に記したのでここでは書かずにいたい。

 

 そのころ汽車がこの村まで通じていた。ブレーメンから支線に乗り、たしかオスターホルツ・シャームベックで更にローカルな線に乗り換えるのだった。そして1977年の夏だったと思うが、私は村はずれにあるアトリエハウスに三ヶ月を過ごし、二年後ふたたび同じ家に三ヶ月住んだ。

 

 駅舎から少し離れたところにあるアトリエハウスを訪ねてみた。戸口には「マルティン・カウシェ・アトリエ」という案内板が立てられていた。マルティンの死後、この施設の開設と管理に余生を捧げた彼を記念してそう呼ばれるようになったのだろう。

Atelierhaus

 

 アトリエハウスから2キロほど、見渡すかぎりの牧草地のあいだの田舎道を歩くと、やがてハンメ河畔に出る。その先に広がるトイフェルスムーア(悪魔の沼地という意味だ)の道をずっと先まで歩いていった。あの夏、裸で水浴びをしたその沼を確かめたかったのだが、ついに見つけだすことは出来なかった。トイフェルスムーアの風景は30年前と変わらないが、周りの耕作地は様子が変わってしまい、晴れた日にいつも自転車に乗って泳ぎに行ったその場所は分からなくなってしまった。ここでも時間が過ぎていたのだ。

 

 それから村に戻り、小さな美術館を三つ訪ねた。「グローセ・クンストシャウ」にはヴォルプスヴェーデ派の画家たちの絵が展示されている。隣には「カフェ・ヴォルプスヴェーデ」(ミシュランでペロチョンマークが付いたレストランだ。今夜、私はそこで食事をした)。「モーダーゾーン・ハウス」は私が暮らしていた時分にはなかった施設だが、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーが息を引き取ったその家が小美術館に改装されていた。そして最後に、私の宿の隣にある「バルケンホーフ」を訪ねた。ヴォルプスヴェーデ派の代表画家ハインリヒ・フォーゲラーの暮らした家だ。


Barkenhof

 

 ライナー・マリーア・リルケは1901年友人フォーゲラーの誘いでこの家に滞在し、美術論集『ヴォルプスヴェーデ』を書いた。彼はここで知り合った彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚、彼女の薦めでロダンを識り、やがてパリへと旅立っていった。ロダンのもとで数年を過ごしたリルケだが、ロダンとの確執を余儀なくされ、ミュンヘンに移住する。そこで我らがパウル・クレーの知遇を得ることになる。

 

 カフェ・ヴォルプスヴェーデからの帰り途、漆黒の森を抜けると満天の星空がみえた。


ピレネー

 

南仏プロヴァンス、セナンク修道院前庭に咲くラヴェンダー。訪れたのは7月27日のことだった。

ラヴァンディン摘みゆく袖に露涼し 瞬星

 この旅に同行してくれた伊藤瞬星はそう詠んだ。彼とは二日後の7月29日、アヴィニョンで落ち合ったのだが、セナンクをよく知っている彼は、歌仙を巻こうと約束したわれわれの旅の、発句を上のように歌った。続いて私が脇「視界さいぎる杜(もり)蝉時雨」と続け、キュレイター林(俳号・勝太郎)が「響く音に我知らずとも護られて」と第三句を附けた。日本では馴染み深い真夏の蝉だが、フランスでは蝉が生息しているのはプロヴァンス地方だけで、そのためか、蝉は人々の御守りだと考えられている。勝太郎の句意がそこにある。

 7月24日、われわれの旅はニースから始まった。それから数日、アリョーシャ・クレーの細君アネットの実家があるカヴァイヨンに逗留、近隣を案内されマルキ・ド・サドの旧居城跡などを見て回ったが、その日、アリョーシャの運転で上記セナンクを訪れた。旅の目的は、キュレイター林の次著『ロートレックの食卓』(講談社)の取材であったが、その前後を利用して私たちは数多くのロマネスク教会を訪ねることにした。

 旅の詳細はともかく、20日間に及んだ南仏・スペイン北部の旅行でわれわれの歌仙は無事に巻き上がり、いま編集作業をしている。帰国して間もなく、「パウル・クレー 東洋への夢」展が静岡県立美術館で終了し、横須賀美術館に移動、私は展示撤去作業のためにふたたび出張に出た。夏が瞬く間に過ぎていった。

 ロートレックの生地アルビ、その名にもあるトゥールーズ、終焉の地マルロメ城と墓地を訪ねたあと、死期迫る彼が一度だけ(?)訪れたという大西洋岸の保養地アルカションまで足を延ばした。そこから一気に海岸線を南下してスペインに入り、サンセバスチャン、ビルバオに行った。サンセバスチャン郊外にあるチリダ美術館は出色、開館以来どうしても行きたいと願っていたグッゲンハイム美術館ビルバオにも念願かなって行くことが出来た。

 だが何よりもこの旅行で忘れがたいのは、早朝ビルバオを出発してフランスに戻り、大西洋岸からピレネー北辺を走って一挙に地中海側に出、途中、ロマネスク教会を訪ねながら、スペイン国境に近い小さな港町に投宿した翌朝のことだった。

 旅行中、同室の瞬星は毎朝、私より一時間も早く起きて、健康管理のためにジョギングを欠かさなかったが、その日、バルセローナに向かって出発しようとしたとき、ちょっと待て、すごいものを見つけたと言って彼は私たちをとある道に連れて行った。家の壁に「ヴァルター・ベンヤミン通り」とあり、1940年、ナチスの迫害を逃れてアメリカへの亡命を試みたユダヤ人歴史哲学者ベンヤミンが、徒歩でスペインへの出国を目指すものの遂には山中で大量のモルヒネを摂取して自殺を図ったその山道に通じる場所であった。

 前日、国境の港町に向かいながら私たちは車中で、ベンヤミンが「ピレネー山中に非業の死を遂げた」と伝えられるのはその辺りではなかったかと盛んに話していたのだが、たまたま投宿した集落の近くにその道があるとは思わなかった。最晩年のパウル・クレーが天使の絵を数多く描いていることは良く知られているが、1920年、クレーがバウハウスの教授に迎え入れられる前に、彼は有名な天使の絵を一点描いている。その作品「新しき天使」はミュンヘンの画廊に展示され、翌年、ベルリンからやって来た若い哲学者がそれを購入した。彼はベルリンの自室に絵を飾り、長いあいだそれを眺めて暮らした。第二次大戦の勃発とともにベルリンの若いユダヤ人哲学者は移住を余儀なくされ、パリに移った。そこでベンヤミンは彼の遺書とも言われる「歴史哲学テーゼ」を断片的に書き上げるのだが、その第9章は、かつてミュンヘンで買ったクレーの絵について書かれたものであった。(この絵についてはベンヤミンのテキストとともに当欄に書いた。2008年3月3日)

 その道がスペイン国境に通じているものかどうか、私たちは半信半疑で車で登っていった。途中にマイヨールの小さな美術館があった。果たせるかな道はやがて丘の頂にいたり、かつての国境線と思しき標識を越えスペインへと続いていた。私に意外だったのは、これまで本で読んできた「ピレネー山中に非業の死を遂げた」その山道が、鬱蒼とした森の道ではなく、牧歌的で明るい風景であったことだ。だがそれだけに、ゲッセマネの丘に祈るキリスト同様、誰ひとり見ていたわけではないが、生命を断ち切らざるを得なかったヴァルター・ベンヤミンの悲しみが強く感じられたことだった。私を含め、車中のみんなが涙を流した。

クリシーの静かな日々

龍安寺

すっかり時間があいてしまった。

 

 そろそろ書かなければ貴重な読者を失うことになる。とてもブログを書く時間が無かった。3月以来、延々今までである。どうしてそんなことになったのか。この間、何があったか思い出すこともできない。老年の危機である。

 

 59歳は老年とは言わないが、間違いなく老人性健忘症が始まっている。先週、歯が抜けた。ゆらゆらしてきたので、掛かりつけの渋谷の歯科医に行ったが、先生が手で抜いてくれた。手で抜いたのに手術代2,500円が請求に載っていた。手で抜こうがペンチで抜こうが手術代金には違いがない、ということだ。歯が磨きやすくなった。脳天気である。

 

 ノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館所蔵、ピカソとクレーの生きた時代展が5月末日終わった。昨年10月名古屋で開会してから約半年、これまでにない苦労を強いられた展覧会だった。

 

 そうそう、思い出した。3月の末、NHK日曜美術館の取材でドイツとスイスへ行ったのだった。本放送は510日だったが、蝶ネクタイが好く似合いますね、とお褒めの言葉を方々から頂戴した。蝶ネクタイが好く似合ったのは、3月初旬のスタジオ録画のときで、それより海外取材の方が大変だった。

 

 本放送をご覧になった高橋文子さんからメールが届いた。お叱りのメールだった。放送の中で、海外取材の部分だが、ルツェルンのフィッシャー画廊初代社長が「反ユダヤ主義者」とナレーションに入っていた。『新版 クレーの日記』を翻訳なさった高橋さんが、実はNHK海外取材の通訳を務めてくださって、彼女は休暇でミュンヒェンに滞在していたが、休暇を返上して取材旅行全行程に付き添ってくれた。フィッシャー画廊とは、1939年、ナチス没収絵画のオークションを行った画廊で、当時スイスでは国際的画商との関係を持っていた画廊の一つであったことから、ナチスがドイツ国内の公立美術館から没収した絵画の販路を託されたわけだが、フィッシャー氏ご自身は反ユダヤ主義者ではなかった。お孫さんに当たる当代の社長さんが取材に応じて下さったのだが、これまでこの種の取材には応じていなかったのだと思う、高橋さんの説得でインタビューに答えて戴いたのだ。

 

 それなのに、初代フィッシャーさんを「反ユダヤ市議者」呼ばわりしてしまった。スタジオ収録の前に、海外取材部分を見せていただいたのに、私はそれを見逃してしまった。どれほど高橋さんが気を遣い、通常なら応じない取材に当代のフッシャーさんが応じてくれたか、結果として、私はそれを忘れてしまったのである。高橋さんの叱咤は当然であった。

 

 一般的に日本人は、ヨーロッパ人にとって「反ユダヤ主義」という言葉がどれほど重いものか想像がつかないだろう。老人には、戦前の「反中国人主義」「反朝鮮人主義」の意味がお分かりになろう。「反ユダヤ主義」は、ヨーロッパ人にとっては、歴史的には、それ以上の重み(と申すか、罪悪)がある。この場合、海外取材の映像を事前に見せて戴きながら、「反ユダヤ主義」という表現を見落とした私の罪は非常に深い。蝶ネクタイどころではなかった。

 

 つまりは、慌ててNHKのご担当者に連絡を取り、再放送では「反ユダヤ主義」の語をカットしていただいた。結局、関係各位みなさんにご迷惑をかけてしまったのだ。こうなると59歳も立派な老人である。おまけに、展覧会が開かれていた神戸が、選りに選って新型インフルのピンポイント地域となってしまい、再放送の時には展覧会の案内も省かざるを得なくなってしまった。展覧会は再放送の翌日から一週間閉鎖となってしまったのだった。

 

 海外取材から帰って間もなく、神戸の展覧会展示作業のために、デュッセルドルフからアネッテ・クルツィンスキがやってきた。展示作業の予備日、私は彼女を連れて京都に行った。春たけなわの美しい日であった。

 

 上の写真は、その日、彼女と訪れた竜安寺石庭。しだれ桜が満開であった。おそらく将来、この写真を見て、私は言うであろう、さまざまなことおもひだすさくらかな。



Muenchenbuchsee

 実は今回の海外取材で、私は初めてクレーの生まれ故郷ミュンヒェンブーフゼーを訪れた。放送にも出てくる、クレーが1933年スイスに亡命して後、画布に使うジャガイモ袋を貰いにいった農家は瀟洒な建物であった。 


東京・春・音楽祭

Jamie Cullum

気持ちのよい三月の午後だ。

 「東京・春・音楽祭」にジェイミー・カラムが出演するわけではない。大きな音でジェイミーの"Twentysomething"を聴いていたら、思わず身体が動いてきて、椅子に座って踊っていた。日曜日の午後、踊りながらブログを書いている。世の中、春めいてきたということか。

 「東京・春・音楽祭」は来月中旬まで、上野公園にある文化施設のさまざまな場所で大小のコンサートが開かれる。先週木曜日、オープニング・コンサートに招かれ、ピアノトリオを堪能した。ヴァイオリンの川崎洋介さん、チェロのケッセルさん、ピアノのセレフリャーニさんはジュリアードの同窓生であるらしく、ニューヨークを中心に演奏活動を行っている。

 シューマン、シューマン、シューマン、メンデルスゾーン、アンコールにシューベルト。室内楽は音楽の「ことば」を聴くのにもっとも適している。シューマンとメンデルスゾーンとシューベルトの言葉がどう違って、どう共通しているのか、すこし解ったような気がした。至福の時間であった。

 ひとつ気が付いたのは、最初と2曲目のシューマンは、チェロ、ヴァイオリンそれぞれとピアノ伴奏の曲で、3曲目にピアノトリオだったが、トリオになってから三者の音が俄然佳くなった。独奏とアンサンブルの違いというか、これもどうやら音楽的言語に由来するものらしく、三人の演奏は「一人の三倍」以上であったのはアンサンブルの妙味としか言いようがない。

 会場は国立科学博物館の「講堂」という(初めて入ったが)、これまた何とも古風な、大正か昭和か、それとも明治か、和洋折衷の洋風な講義室で、タイムスリップしたような雰囲気も良かった。帰りがけ、展示室の一部が見え、上野動物園初代パンダ「ランラン」の剥製が展示されていた。先月から、谷川晃一さんと女子高生のように(谷川さんは70歳、私は58だが)三日に明けずメールの交換が続いているが、それぞれ「タニタニ」「シンシン」とパンダ名でメールを書き、福建省タニタニとか黒竜江省シンシンとか署名するのだが、ランランの剥製を目の当たりにして、ああ、われわれはとても本物のパンダには適わないと、実に奇妙な感想を抱いた。

 昨夜、南青山の「無尽」で、『クレーの食卓』出版記念会を開いた。40名ほどの方が参加してくださった。高熱で倒れていたキュレイター林はすっかり元気になったが、記念会にお出しする料理やケーキを前日から自宅で作りはじめ、また倒れるのではないかと心配したが、どうやら全快した様子だ。今日は午前中から文化村の展覧会ショップに立って、ちょっとでも『クレーの食卓』に興味のありそうな顧客を見つけるとニコニコしながら傍に寄っていって、キャッチセールスに忙しいらしい。著者の鑑である。ありがたいことだ。私はジェイミー・カラムに合わせてロックンロールで踊っているというのに。

 「東京・春・音楽祭」のプログラムのひとつ、4月13日「こどものための音楽会 佐藤俊介ヴァイオリン 絵と音楽 パウル・クレー」には私も出演する(東京文化会館・小ホール)。パンダの剥製が飾ってある会場でなくて残念だが、短時間、こどもたちにクレーの話をするので、さて、いったい、どんなことを言えばいいのかと、頭を巡らせている。その前に今週土曜日から月末までドイツとスイスへ。デュッセルドルフ、ミュンヘン、バーゼル、ベルンを訪ねる。旅行中、想を練ってみよう。

 帰国してすぐ4月3日(金)には、代々木のオリンピック記念青少年センターで、昨年暮れブリヂストン美術館ホールで開いた「クレーの詩 クレーの音楽」のオーケストラ版コンサートがある。ここでは『日記』と『手紙』のテキストをふたたび朗読する。小林クロードが主宰するアンフィニ・サロンオーケストラ大編成に加え、今回、メゾソプラノのワレンチナ・バンチェンコさんが特別出演!乞御期待。是非こちらにもお出かけいただきたい。

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