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  • 2015.12.26 Saturday
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台峯日乗 84

オーロラ

なんの写真なのか分からないかも知れないが、オーロラである。

帰りの飛行機から見た。チューリヒを午後1時に発って、おそらくシベリア上空のイルクーツクとかオムスクとかの上空を通過中のことであろう、いや、一昨日はいつものルートと違って、北極圏ルートを飛んでいた。風の関係だろう、ユーラシア大陸の北辺を飛行するとアナウンスがあった。

それにしても何の幸運か、私は1972年以来、数え切れないほど多くヨーロッパを訪ねて来たが、30年以上も前のことか、シベリア上空からオーロラを機内から眺めたことがあった。それ以来の出来事だった。

娘を連れてふたたびヨーロッパに出た。6月7月に次いであまり時間を置かない渡欧であったが、それなりの理由があった。デッサウのバウハウス財団を訪ね、それからベルリンとミュンヒェンに立ち寄って帰ってきた。デッサウでダニエル・シャヴィンスキーに会った。父親サンティ・シャヴィンスキーはバウハウスに学んだときクレーとカンディンスキーの学生であった。シャヴィンスキーはそのままバウハウス校に留まり、舞台工房の助手を務め、そのほかにも絵画、立体、ダンスなど多くの成果を残しているが、近年、アヴァンガャルドの旗手としてその再評価が著しい。

シャヴィンスキーが残した資料の中にバウハウス・ジャズ・ダンスの衣装デッサンがある。1920年代のアメリカジャズダンスを真似てバウハウス舞台で演じられたものであろうが、写真も映像も残ってはいない。畏友トルステン・ブルーメが、お前の娘が再現するなら世界初と云うことになるよ、と声を掛けてくれたので、娘を連れてデッサウに行き、ダニエル・シャヴィンスキーに会ったというわけだ。娘がチャレンジする気になったかどうかは未だ分からない。

二人でベルリン、ミュンヒェンへ行き、ベルリンのコーミッシュオパーで『真夏の夜の夢』を観た。コミック・オペラ劇場の意だが、国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラと違ってこの劇場では自由で実験的なオペラが上演されることが多い。私はかつて此処で、舞台装置の制作費がほとんど掛からない有名なセビリアの理髪師を観たが、真夏の夜の夢は、むろんシェイクスピアの戯曲をベースにしたもので、ベンジャミン・ブリテンの音楽は素晴らしく綺麗で、藤原真夏という武将がいたがそれは関係なく、ブリテンは謡曲『隅田川』を敷いたオペラ『カーリュー・リヴァー』の作者だが、二列目の上等な席で並んで観た娘は、何の予備知識もなく観たアヴァンギャルドなオペラにいたく感動していた。舞台芸術とはそんなものであろう。ブリテンのオペラを初めて観たが、音楽の美しさに打たれた。

真夏の夜の夢の話をしていては切りが無い。私の大好きな戯曲である。ベルリンの舞台(演出)は殊の外下品な場面もあり、観客は笑うに笑えない場面などもあるのだが、アヴァンギャルドが真実を突く有効な手段であることを今さらながらに示していた。楽しい旅行であった。そして帰りの飛行機からオーロラが見えた。



 

台峯日乗 83

Tunisia_1914

ヘッセに「むかし千年前」という詩がある。

むかし千年前は、90年代に桜井淑敏さんが主宰したRCI(レーシング・クラブ・インターナショナル)のクリスマス会で初めて朗読し、天才ピアニスト深井克則とのコラボレーションだが、それから何度かは人前で読む機会があった。ヘッセ最晩年の詩で、夜中にふと目を覚ますと、竹林が風に音をたてて何かを物語っている、というような一節があり、正確ではないが、吉本隆明の『母型論』に、自然のもの音がことばに聞こえるのはミクロネシア(だったかな?)の小民族と日本人しかいない(これも曖昧な記憶だが)との説があり、へぇ〜ドイツ人にも自然の音が言語に聞こえるんだ、と意外な感想をもったものだ。そんなことはどうでもいい、

 ちょうど100年前の昨日、8月4日に第一次世界大戦が勃発した。最初の戦闘(ドイツ軍侵攻)が行われたベルギー(ブルージュ)に世界50カ国の代表が集い式典が開かれたと今朝のBBCニュースサイトにある。むろん日本も間接的な参戦国であったので、式典に列席した筈だが、安倍総理が参加したのか、どなたかが代理列席されたのか、私は新聞もテレビも観ないのでわからない。

 この年1914年の4月、クレーは二人の画家仲間ルイ・モワイエ、アウグスト・マッケとともにチュニジアを旅行する。クレーにとっては非常に大事な旅行であったが、これをテーマにした展覧会はこれまで開かれることがほとんどなかった。今年、ようやく「チュニジアへの旅、1914」と銘打ってクレー・センターでの展示が実現した。6月末、私は娘を連れてベルンへ行ったのだが、残念なことに当展の会期には一週間、間に合わなかった。巡回展はない、今年ベルンでのみの開催、是が非とも観なければならない展覧会だった。いまカタログをぺらぺら眺めながら、しまったな〜と思いつつ、タイミングだから仕方ないと諦めること頻りである。

 チュニジアに同行したマッケは開戦と同時に従軍し、9月ヴェルダンで戦死、奇妙なことにクレーはマッケの戦死について『日記』では触れていない、いや、少し書いていたか、マッケの死後、身重のマッケ夫人をミュンヒェン中央駅に迎えに出たのはクレーだったような気がするが、これも思い違いかもしれない。いや身重だったのは1916年に亡くなったモワイエ夫人の方だったか、ちゃんと調べずに記事を書くと、話がごちゃごちゃといい加減を極めることになる。

 100年の時間を経て、敵味方で闘った欧羅巴は、いまや仲間でありひとつであり、平和の内に歴史上初めての時代を共有していると、ジェイムズ・キャメロンが式典の挨拶で話していた。ニュースを丹念に読んでいたら、興味深い記事がたくさん出ていた。昨夜イギリスでは、午後10時から11時までの一時間、あらゆる電灯を消してキャンドルを一本だけ点すパフォーマンスも行われた。これは午後11時に当時のイギリス政府が宣戦布告を発したことを記念して、時の外相エドワード・グレイ卿が前夜「ヨーロッパの灯りがすべて消されることだろう、生きてるあいだに二度と光を見ることはあるまい」と言ったことに発想された。

 1914年〜18年に1700万人の兵士と市民が犠牲者となった。考えられない数字である。昨日さまざまな場所で記念式典が行われたが、サン・シンフォリアン墓地(ベルギー)でのイベントが大きく取り上げられている。墓地は1917年にドイツ軍によって作られたもので、大戦後イギリス軍が占領、現在約500基の墓石が建っており、半数はドイツ軍兵士の、残り半数がイギリス軍並びに連合王国兵士の墓石という象徴的な、ユニークな戦争記念物である。式典では、ロンドン・シンフォニー・オーケストラのメンバーとベルリン・フィルのメンバーによる混成楽団がサイモン・ラトルの指揮で『ドイツ・レクイエム』を演奏したらしい。私はブラームスのこの曲が子供の頃から好きなのでぜひ演奏を聴きたかったが、聴きに行く可能性は皆無であったろう、あたりまえだ。

 ロバート・グレイヴスの息子が「戦争は父をどのように変えたか」というインタビューに応えている。インタビューの内容はあまり良く理解できなかった。が、グレイヴスは私の好きな詩人のひとりで、第一次大戦に大きく関わっている(戦争詩で有名になったが、後年グレイヴス自身が戦争詩を著作集から削除)が、私は特に2、3の詩を愛唱するだけである。彼は長らくマジョルカ島に暮らしそこで亡くなった。ロンドンの友人アンドリュー・サンダース(先月会ったばかりだが)がグレイヴスの娘さんルチアを良く知っていたので、私がマジョルカ島滞在中、一度訪ねてみてはどうかと云われ、大喜びで楽しみにしていたのだが、なかなか機会が訪れないままになってしまった。グレイヴス宅のある海辺の集落デイヤには何度も行く機会があったのだが・・・。グレイヴズの死後(1985)旧宅は記念館となっている。そのうち伺う機会があるだろう。

 余談だが、第二次大戦後、マジョルカ島のグレイヴスを訪ねた若きアラン・シリトーは、詩人の示唆で作家を目指すようになり『土曜の夜と日曜の朝』『長距離ランナーの孤独』などを書いた。私はシリトーも好きだ。

 
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台峯日乗 82

アルプス山頂

4月以来ブログを書いていなかった。

 忙しいわけではなく、ブログ記事への興味が薄れてきたせいだ。面倒に感じている事情もある。ただ、ブログを読んで「あぁ、あいつまだ生きてる」と思ってくれる読者も多いので、安否確認でたまには投稿しなければならないのも当然だ。猛暑で頭脳が働かない、横柄な物言いをお許しいただきたい。あいかわらず旅の話題だ。

 暗くて顔が分からない上の写真は、右がシュテファン・フライ、左が筆者、スイス・ベルンアルプスの裏側、イタリア国境にほど近いヴァレー地方のエッギスホルンに登った。登ったと云っても脚で登ったのではなく、ベルンから列車を乗り継ぎフィエッシュ駅からロープウェイに乗れば簡単に行ける。シュテファンが汽車賃も何もかもおごってくれた。

 というのも、6月下旬、私は娘を連れてヨーロッパ旅行に出掛け、娘には12年ぶりのヨーロッパだが、あのとき訪ねたベルン・アルプスの山をもう一度歩きたいと彼女が云い、それを聞いてシュテファンが、いや、もっと高い山から氷河を眺めようと云って、私たちをエッギスホルンまで連れていってくれた。急ぎの論文があって、申し訳ないが滞在中はお相手ができないと伝えてきたシュテファンだったが、この日、むりやり時間を作って雪山に私たちを招待してくれたというわけだ。

 左下に見えるのがアレッチャ氷河、アルプスではいちばん長い(32キロだったかな)、写真はむろん娘が撮ってくれたが、パパは渋谷にいてもアルプス山頂にいても服装がまったく変わらない!と大笑いしていた。それにしても360度のパノラマは滅多に眺められる風景ではない、幸い天気予報に反して、ときに雲にも覆われたが、それから山道をしばらく歩いて隣の集落まで行った。

 二週間、娘と二人きりの旅行などたぶん最初にして最後であろう。クレーセンターを案内した。バーゼルのバイエラー財団ではゲルハルト・リヒターの大回顧展が開かれていた。ここ数年、何処へ行ってもリヒター回顧展に出くわすが何度観ても面白い、娘がリヒターを観るのは初めてだったが、基本概念を説明してあげたらとても興味を示して熱心に眺めていた。丹念に見おわってから、頭パンパンだよと漏らしていたが。後日、娘を南仏の友人宅に送り届けてから(彼女はここに8月中旬まで滞在するのだが)、私はひとりドイツを回り、途上、ドレスデン美術学校の卒業制作展を見学したのだが、同校には「リヒター伝統」のようなものが受け継がれているのを目にした。まあ流行り物ではあるが。

ポンピドー3 二人でパリへ出て連歌仲間の瞬星を訪ねた。瞬星の招きでフレンチをご馳走になったが、生まれて初めての本格的なフレンチに彼女はいたく感激した。趣味人の彼らしく気取った店ではなく、フランス人のためのフレンチレストランだから、彼女の初めてのフレンチはオーセンティックなものであった。30年ぶりに凱旋門の屋上へも行ったし、ポンピドー・センターで展示も観た。ポンピドー・センターのフレームの間からサクレクールが見える。近くのクレープ屋さんで美味しい昼食も食べた。



キューガーデン それからロンドンへ行き、旧友アンドリュー・サンダースを訪ねた。娘は彼のフラットでランチやサパーを一緒に作って満足していた。翌日は三人でキューガーデンへ。2年前だったか、3年前だったか、久しぶりにロンドンへ行った私は彼とキューガーデンへ行った(たしか当欄に記事を書いた)。それは3月初旬のまだ寒い時期で花はなにも咲いていなかったが、いまは園内何処へ行っても花盛りだ。

 これは出発前からの約束だったのだが、ハーマジェスティ劇場に『オペラ座の怪人』を観に行った。私は25年前の初演を観ているが、そのとき娘はまだ生まれていない、幕が上がった瞬間、二人ともポロポロ泣いた(泣いた理由は別々だ)。なぜ泣いたかは面倒だから書かない。ロンドンのパブで、フィッシュアンドチップスを一度食べてみたい、という彼女の願いであったが、折からワールドカップのパブリック・ビューで試合の日は立ち席、タイミング悪く、この願いだけは果たしてあげられなかった。

 パリへ戻った日、旅の疲れが出たのか、ふたたび瞬星がフレンチに連れていってくれる予定だったのが、残念なことに娘はホテルで休んでいなければならなかった。体調を整え、雨模様になったパリを離れて、私たちはTGVでアヴィニョンへ向かった。駅にアリョーシャ・クレーが出迎えてくれた。

 私は娘をクレー家に送り届けてすぐにドイツに引き返す積もりでいたのだが、あんた、折角カヴァイヨンまで来たのに一泊で帰ることはないでしょうよ、と妻君のアネットに叱られ、ベルリンでの会合をキャンセルしてもう一泊留まることにした。翌日はみんなでサンレミまで食事にいった。本当に久しぶりだった、夏の陽光を遮る中庭のテントの下で、私はようやく、父親らしいこと(元来そんなものは無いのだが)を怠ってきた10年余りの日々をやり過ごしながら、この夏、娘の願いを叶えることができたと思った。夢のような、まるで新婚旅行のような旅を終えて、私は仕事に戻った(これも嘘だ、私には人生と仕事との境目がわからない)。チャンチャン





 
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台峯日乗 81

国東半島本宮磨崖仏

国東半島本宮磨崖仏。

 まるでロマネスクそのものだなと、私が云うと「オレも同じこと考えてた、ファインダーを覗いた瞬間そう思った」とアリョーシャが応えた。九州旅行の大半が雨に見舞われ、思ったようには回れなかった。鹿児島を諦め、今回は九州の北半分だけを訪ねる旅にした。

 名高い熊野磨崖仏を見に行ったのだが、土砂降りで、駐車場から350メートル急な階段を登らねばならないと云われ、アリョーシャが躊躇した。仕方ない、近隣に何かひとつ見学して福岡に戻ろうということになった。それで訪れたのが本宮磨崖仏だったが、これはどう見てもロマネスクだ。開基800年代と立て札にあるが、レリーフが彫られたのは10世紀か11世紀のことであろう。中央に剣を持った不動明王がいて、小さな脇侍(これも仏様なのだが)がご主人を見上げている。

高千穂神社 連日のように雨に祟られたとはいえ、楽しい九州旅行ではあった。高千穂神社境内に立つ結びの樹の前のアネット、この樹木の回りを三度回ると縁が強く結ばれると書いてあったので、アリョーシャとアネットとマティアスと私で三度回った。ほんとうは手を繋いで回るのだが、傘を持って手が塞がっていたから、電車ごっこのように数珠繋ぎで回った。堅く結ばれたことだろう。

 一昨日帰宅して、日本史に詳しいジャイコこと若い友人(福岡出身だが)に「やっと帰ってきたよ」とメールしたら、「博多から鎌倉に帰るって、元寇帰りの御家人のようじゃあないですかぁ!」と返事が返ってきた。そうだね。



 
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台峯日乗 80

阿蘇

日曜日、誕生日を迎えた。64歳になった。

 むかし「フランシーヌの場合は〜」という歌があった、誰の歌だったか覚えていない。なかに「♪さんがぁ〜つさんじゅうにちの(3月30日の)にちよおび(日曜日)♪」という歌詞があって、それだけは覚えている。博多を発って雲仙観光ホテルに到着した夜だ、何気なく(何気ない筈はないが)ホテルに「今日は私の誕生日で、明日はこのフラン人(アネット・クレー)の誕生日なんです」と云った。

雲仙観光ホテルケーキ するとホテルの人が気を遣って、その日のディナーで左様なケーキを出してくれた。まこと様、Happy Birthday! というカワイイお皿だった。むろんアネットにも同様のお皿が出された。結局、私たちはここに3泊した。素晴らしい建物だったからだ。前日「美の巨人たち」なるテレビ番組でホテルの建物が紹介されたらしい、1930年建築家早良俊夫作、硬質の硫黄泉でわたしたちは滞在中、朝に夜にさんざん温泉に入って過ごした。



天草大江教会 二日目、天草へ行った。私たちの誕生日に教会へ行きたかったからだ。大江チャーチが太陽の光りに映えて美しかったが、残念ながら月曜休館とあって御堂の中には入れなかった、それで次に津の教会へ行った。中庭で子どもたちが遊んでいた。教会のなかは静まりかえっていた。

天草津教会 わたしは額づいて神に祈った、どうか罪深きわたしの人生をお許しくださいと、ほかに何を祈ることがあろう、64歳の誕生日には相応しかった。今朝もう一度温泉に浸かってから山を下り、島原外港から熊本までフェリーのに乗った。ホテルにチェックインしてすぐに阿蘇へと向かう。夕刻近く、それでも西の空は明るく、峠に車を駐めて来し方を眺めた、雲の合間から光りが降りていた、遠くに海が光っている。それから山頂に登り噴火口を見た。
それが私たちの住む星地球の姿に見えた。




阿蘇噴火口






 
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台峯日乗 79

スイスロマンド

エルネスト・アンセルメの名を知っている人は今ではもう少ないだろう。

 少年の頃、アンセルメのレコードで聴いたベルリオーズは、今日でも耳の奧に残っている。たしか練習の様子まで録音されていたもので、アンセルメがどのようにベルリオーズ(むろん『幻想交響曲』のことだ)を作っていくのかまで分かって貴重なレコードだった。ベルリンを発つ前夜、学生たちを連れてフィルハーモニーへ行った。残念ながら当夜はベルリンフィルの演奏会はなく、スイス・ロマンド・オーケストラの演奏会であった。ところがプログラムに『幻想』が入っていたので、私は驚いて、え?、スイス・ロマンドって未だ実在するの?!という程度の認識しかなかった上に、あのアンセルメの十八番だった『幻想』を弾くとあって、え?え?ってな調子で、私にとっては少年時代の、エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド・オーケストラ『幻想交響曲』が最高の演奏だと思い込んで半世紀を過ごしてきたものだから、さてさてネーメ・ヤルヴィ(当夜の指揮)の『幻想』など果たして如何かと高を括って出掛けたのだった。

 ところがヤルヴィの演奏はとても優れたもので、優れたというより凄かったので、ヤルヴィさん済みませんでした、と一言申し上げねばならなかったが、ま本人はそんなことはどうでも良かっただろうが、終楽章の鐘の音が聞こえてくると、いつものことながら、涙もろい私は、少年の頃の思い出や、その後のだらしない人生の来し方がゴチャゴチャに混ざって、ついつい目頭が熱くなった。

桑沢学生ベルリン 今回の旅は、桑沢デザイン研究所卒業生奥田雅子さんの卒業制作『やわらかバウハウス』がデッサウ・バウハウス財団で展示されるのを機会に、展示の初日に同席することと、バウハウス関連施設を見学して回ることだったから、それはそれで良かったのだが、せっかくドイツへ行くのだから、しかも彼らには初めてのヨーロッパで、それはそうだろう18〜20歳の若人なのだから、ヨーロッパ社会の一端を経験させるつもりで、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』とスイス・ロマンドのコンサートを旅程に組み入れ、その日は大人になって、しっかり大人のお洒落をして、オペラや演奏会に来るベルリンのお姉さんお兄さんおじさんおばさんたちがどんな様子かを観て帰りなさい、と旅行前から吹き込んでおいた。彼らがどんなにお洒落をしても腹話術のお人形さんでしかないのは仕方ない、昨夜も書いたが、日本には真の身分社会が失われ、オペラを観に出掛けたりクラシック・コンサートに行ったりすることが、社会的にどんな意味なのかを知る由はないからだ。でもみんな頑張った。ドレスアップして歌劇場へやって来るドイツ中産階級のお姉様方が、どれほどのオーラ(ばかばかしい言葉だが)を放っているかを、垣間見ることも出来たのだし、演奏会に来ていた身なりの良い紳士淑女が人生を背負っている顔付きであることにも気が付いただろう。夢のような旅であったと昨夜書いたが、夢のようであったのは、彼らにとってこそであったに違いない。

デッサウ散歩道 昨夜書いたことで思いだした。デッサウで早起きをして、私にはめずらしいのだが、エルベ河畔へ散歩したこの道は、クレーがたびたび歩いた散歩道である。彼が住んでいた教員住宅からエルベ川までは1.5キロほどの道程で、現在では途中まで家が建ち並んだ、あまり美しくもない住宅地域なのだが、当時はところどころに農家の小屋が見え隠れするような閑かな林道であった。この道を歩きながらクレーは、制作に取りかかった絵のことを一心に考えていたことだろう。そこには旅の思い出があった。『地中海の旅』には、そんなことの裏返しを書いたつもりだ。

 ドイツから帰って、旅の後片付けもそこそこに、昨日の夕方、広島でアリョーシャ・クレーの家族と合流、午後から天気は崩れ、生憎の雨模様ではあったが、宮島・厳島神社に詣でた。歩きながら撮った写真でピンボケだが、左からアリョーシャの禿げ頭(私も天辺はすっかり禿げた)、息子のマティアス、妻君のアネット、マティアスは私のゴッドチャイルドで、以前はフランス語しか話せなかったのに、何処で覚えたのか、いまではしっかり英語が話せるようになった。明日は島原、雲仙へ、それから阿蘇、高千穂を回って鹿児島、指宿、九州東海岸を北上して別府、国東半島、来週の日曜日まで私の旅が続く。

クレー家





 
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台峯日乗 78

エルベ川

夢のような旅であった。

写真は3月22日早朝、前夜夕食を取ったエルベ河畔コルンハウスまで散歩して撮影した。コルンハウスとは、バウハウスの建築家カール・フィガーが建てたエルベ川添いのロマンティックなレストランの名で、ここ数年しばらく改装工事のために閉じていたのだが、再開し、しかし残念ながら料理に質は落ちていた。いつのことか、ここで食べたシュパーゲル(白アスパラガス)が忘れ難い。

 白アスパラガスと云えば、今回の旅ではシーズンに早過ぎてお目に掛かることが出来なかった、残念。買って帰ることも出来ず、来月にでもベルンに行ければ(と云うのも、クレー・センターで「チュニジア旅行」展が開かれているからだが)、いつものマーケットで大量に買ってくることにしよう。

奥田雅子デッサウ 今回の旅行の要件は、桑沢デザイン・スクールを昨年卒業なさった奥田雅子さんが、卒業制作で発表した『やわらかバウハウス』(漫画とテキストを組み合わせたユニークなバウハウス論だ)という私家版の本をドイツ語訳して本家本元のデッサウ・バウハウス校舎に展示するプロジェクトで、それを観に行く目的だったのだが、デザインスクールの現役学生に行きたい人がいれば連れて行きますよ〜、と学内で声を掛けたところ、4人の学生が「行きたい、行きたい」と手を挙げ、結局私は、奥田雅子さんとそのパートナーAさんを案内する役割より、4人の学生を連れてのバウハウス・ツアーの引率に徹しなければならなかった。


 それなら仕方ない、彼らはヨーロッパは初めてなので、バウハウス施設の案内もさることながら、ヨーロッパの分相応社会つまり階級社会を知らせねばならないと思い、戦後日本社会が何故ダメになってしまったかを教えることだが、それを体験させることにした。3月19日ベルリン着、20日はバウハウス研究所を見学してからベルリン美術館島へ行って、ペルガモン博物館、ノイエ博物館(エジプトの女王ネフェルティティの像を久しぶりに観た)、夜はベルリン・ドイツ・オペラ『ドン・ジョヴァンニ』へ行った。

 ドン・ジョヴァンニは謂わば忠臣蔵であるから、物語の筋を知るために来ている人など誰もいない。変わった演出だった、ドン・ジョヴァンニが何人も舞台に現れ(むろん歌う歌手はひとりだが〉、稀代の悪党ジョヴァンニが現代の社会(人格化された)そのものだというメッセージだった。

 ドイツ旅行のことを詳細に書くつもりでキーボードを打ち始めたのだが、私は昨日の朝成田に帰って来て、今は広島にいる。旅が続いている。4月6日まで家に帰れない。アリョーシャ・クレーの家族と一緒に九州旅行をするためで、旅をしながら徐々にドイツの話を書くことにしよう。あ、そうそう、ようやく新著『パウル・クレー 地中海の旅』が書店に並んだ。これについても次回書くことにしよう。


 
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台峯日乗 77



明日は雪の予報らしいが北鎌倉はポカポカしている。

 日中は窓を開けて過ごした。立春が名ばかりでない、と知った。それでまた、ル・パルクのことを思い出していた。プレルジョカージュの"LE PARC"については、センチメンタルな記事を書いたので繰り返すつもりはないが、プログラムの表紙を見て、春の訪れに思いを馳せずにはいられなかった、これから寒の戻りは何度もあるだろうが。

 昨日、日常と非日常、現実と非現実のパースペクティヴがどうのこうのと述べたが、ル・パルクのプログラムを見ていたら、記憶の層は単純な時系列ではなく幾つもの時間や場所が複雑に絡みあって出来ていることに気付いた。しつこいようだが、どうせ私はしつこいのだが、芭蕉の「さまざまなことおもひだすさくらかな」の「さまざま」とはそれを云っている。人生は辛いが、芸術はそれを支える。昨晩引用したニーチェのことばどおりだ。

 NYの友だちから「あんた、そろそろニューヨークの空気が吸いたくなってない?」と誘惑のメールが届いた。そりゃ吸いたいけど資金がまったくない、フィリップ・シーモア・ホフマンが薬物中毒で死んだマンハッタンの空気を。ホフマンはとても良い役者だったと思う。ミッション・インポッシブル靴眩々しくて良かったけれど、トゥルーマン・カポティを演じた映画"CAPOTE"が印象深い。映画を一緒に観に行ったかつての恋人A女が、映画館を出てから「ねえねえ、芸術家はたいへんだよね、作品と自分の命を取り替えなければならないんだよ〜」と呟いたのを覚えている。

 私たちは気楽でいい、芸術作品と芸術作品の記憶と芸術作品の記憶に繋がる思い出とを、行ったり来たりしながら生き長らえばいいのだから。T. S. エリオットが詩集『荒地』に書いている「過去も未来も〈現在〉のなかにある」も同意である。生物的には、これも土曜日、MさんとOさんに話したのだが、ヒトのオスはパートナーが受胎すれば役割が終わる。メスは生まれてくる子を育てなければならないし、別のオスの子を産む可能性があるのだから、可能性があるうちは生きなければならない。役割を終えたオスが、他者の迷惑も顧みず、高齢化社会で生きているのは一体どうしたことだろう、生物として繁殖の役割を終えたヒトのオスが生きているのは(役割を終えたメスも同様だが)、人間として「文化」を糧に生きているだけなのだ。

 先年以来、ハイデガーの『存在と時間』を岩波文庫で読んでいる。まったく理解できないでいる。99%は理解できない。僅かに1%くらい理解できる箇所がときどき現れる。現実と非現実、日常と非日常の概念は、しかしながら『存在と時間』のお陰でもある。ダーザイン(Da Sein)、むかし墨田川高校の世界史教師が「ダーザイン、ダーザイン」と叫んでいたのを思い出す。

様々な 事想ひ出す 桜哉

あそうそう、ハイデガーの恋人ハンナ・アーレントの映画も観にいかなければ・・・。



 
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台峯日乗 76


百花園

久しぶりに向島百花園を覗いた。梅がすこしだけ咲いていた。

 先週月曜日、友人RとKと、二人とも女性だが、スカイツリー眼下のイタリアンで食事をし、Rは何処かに立ち寄ると云って別れ、Kと百花園に行った。それから、地蔵坂通りから隅田川の堤に出て、私の高校時代の土地だが、川を下って吾妻橋を渡り、さっきイタリアンを食べたばかりだというのに、駒形どぜうで昼酒、鍋、汁、まったく優雅な一日だった。

スカイツリー 川縁を歩きながら、出てくる話は昭和41年〜43年の高校時代の話題ばかりだった。体操の時間、ときどき学校から吾妻橋までマラソンというのがあった。鳩の街の細い通路を抜け、向島見番脇から長命寺の桜餅を横目に見ながら吾妻橋まで走った。ったく、体操の時間ではなくて永井荷風の世界ではないか。

 その前の週、1月21日から26日までは、疲労困憊の毎日だったからふっと息を抜きたくなったのだ。畏友トルステン・ブルーメが新しいパートナー、リンダを連れて、嵐のように日本にやってきた。セブンイレブン体制でアテンド、デザイン学校で二日連続講義、私がいい加減な通訳だった。彼のコンテクストは承知しているので、話を聞かなくても講義の通訳はできる。

昔の童謡に♪お手々繋いで 野道をゆけば♪があったけれど、その替え歌で

♪おてぇてんぷら食い過ぎて
の〜みぃちぃを〜ゆけぇば〜
あ〜あぁ、もう駄目だ〜、神経衰弱脳膜炎♪

というのがあったが、神経衰弱と脳膜炎はまったく別の疾病カテゴリーだから、併記されているのが可笑しい。

天ぷら 今日、お昼に天ぷら蕎麦が食べたくなり、天ぷらを揚げ、蕎麦を茹でたのだが、久しぶりだったので食材の加減乗除が分からなくなっていて、案の定、天ぷらを作りすぎてしまった。一人分の天ぷら蕎麦を作るのは至難の業である。一人暮らしは辛い、前期高齢者、その辺の道を歩いている人を招いてランチをご馳走したいくらいだ。


 昨日の土曜日、若きデザイナーのMさんとOさんが鎌倉の拙宅を訪ねてくれた。この二人も女性だ、私は最近、ほうれん草の値段が上がったとか下がったとか、Tファールの19センチフライパンをやっと買ったとか、主婦目線でいるので、オジサンの着ぐるみを着たオバサンと呼ばれているのだが、いつも女子会に混ざっている。

 MさんOさんと、北鎌倉駅で待ち合わせをして、明月院を案内した。彼女らは明月院のことは何も知らず、ここは紫陽花寺といって季節になると境内一杯の紫陽花が咲いて、もの凄く人が来て、でもその時期になると入場料が高くなるから、ぼくは腹を立てて絶対に行かないことにしているとひとくさり、だって経済原則に反するでしょ?需要が増えれば総売上が上がるのだから、価格を下げるのが当たり前でしょ?西友ストアだってイトーヨーカドーだってみんなそうしてるよ、なんでお寺が真逆をやるの?

 そんな調子で境内を回って、鎌倉期に掘られたという古い井戸の前に出た。鎌倉十井のひとつなのだが、

 「ねえねえ、これってさ、昔の井戸とか云ってるけど、こんな舞台装置のような石組みとか絵に描いたような釣瓶とか桶とか、鎌倉時代のものであるわけないよねぇ」と私、

 「新藤さん、私たちがせっかくいにしえの思いに浸っているのに、何でそうやって夢を壊すんですか」と叱られた、そこで私ははっと気付いてこう応えた。

 「あのね、君たちが遠い時代の思いに浸っていたよね、で、ぼくが目の前にある現実というか客観的に観察して、どう考えたって鎌倉時代の姿ではなくて観光用に拵えた小道具のような井戸だと云ったよね、これってさぁ、芸術の構造なんだよね、つまりね、目の前にある現実っていうか現象があるじゃん、ね、それで、君たちは900年も前の人びとの生活とか、その時代とか、イマジネーションに浸っていた訳だよ、それをぼくが壊した、芸術作品の意味って、そのパースペクティブなんだよね、つまり現実と非現実を結ぶもの、日常と非日常を繋ぐもの」と偉そうに云った。彼女たちは流石にアーティストだから合点がいったようだった。

 あそうか、一昨日ようやく印刷所に入稿した新著『パウル・クレー 地中海の旅』(平凡社、3月12日出版予定)に、私は矢鱈と現実・非現実、日常・非日常という言い回しで原稿をかいたのだが、MさんとOさんに期せずしてそんな話をしたとき、なるほどと思った。合点がいったのはこちらの方だった。

 それから拙宅で、サラダとチーズリゾットを彼女らに供し、美味しい美味しいと云って食べてくれて、ゲージュツ論の続きやら、仕事の話やら、恋バナやら、気が付くと夜8時を回っていて、彼女たちは帰っていった。

 チーズリゾットを作ったのには理由がある。先年12月、私は久しぶりにパリに行き、帰国便を待って前日はチューリヒ泊まりになったのだが、当欄にも書いたはずだが、COOPでパルミジャーノ(パルメザン・チーズ)を買い、ホテルの冷蔵庫に仕舞って置いたのを、翌朝取り出すのを忘れて、キャーということに帰国して気付き、腹立ちを越えてトラウマにすらなっていたのだが、ドイツからトルステンたちが来るので、あのさ、悪いけどパルミジャーノを買ってきてくれる?とメールして、お土産に貰ったからだ。帰国後すぐに、仕方なく鎌倉の東急ストアでパルミジャーノを買ったが、分量は三分の一、値段は三倍、何よりパルミジャーノの命、回りのガビガビがすべて削ぎ落とされていて、ぜんぜんパルミジャーノとして失格、火に油を注ぐような怒りに燃えたが、これでようやくイタリアのパルミジャーノを得て、試しにリゾットを作りたかったという次第だ。

 芸術文化を考えるパースペクティブ(遠近法)として明月院でMさんとOさんに話した例は、さほど間違ってはいないと思う。W・H・オーデンはそれ(芸術の在り方)を第二の世界と呼んでいるが、オーデンの著作『第二の世界』The Secondary Worldは、体操の時間に隅田川の土手を走っていた頃のしばらく後、二年生の時だった、ああ、この資格社会ではオレはとても生きていけね〜なぁ、と思ってドロップアウトした後の、私の青春期を形成した貴重な一冊だった。

 芸術の役割という意味では、先日偶然見つけたのだが、ニーチェのことばがいい。

 We have art in order not to die of the truth.
 真実を死なせないためにわれわれは芸術を知るのだ。

ああ、昼の天ぷらがまだ消化できない。

 








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台峯日乗 75

ヴュルツブルク

新春慶賀

閑かな夜だ。写真は先年訪れたヴュルツブルクの、マリーエンベルク城の丘の上から見た夕景。カスパー・ダヴィッド・フリードリヒの絵のような空のグラデーションが美しかった。



 市街地の向こうにフランケンのヴァインヤードがどこまでも、どこまでも続いている。その夜、美味しいフランケンワインを飲ませると評判のレストランで食事をした。

 夢のような旅行から帰って、過酷な日常に戻った。さすがに正月三賀日は仕事を忘れた。私には仕事と仕事以外の時間という分節の概念が希薄で、シームレスストッキングもしくは境目の無い遠近両用眼鏡であるから、単純にただ作業をしなかっただけである。ロマンティックなヴュルツブルクの丘の上で撮った写真を見て、むかしコリン・ウィルスンが書いたエッセイの「ロマン主義とは人格からの逃避なのだ」の一文を思い出した。日本の下らない雑誌に寄稿したつまらないエッセイであったが、それはともかく、そっかぁ、人格からの逃避なんだ、とそう思う。フランケンワインは味わいが深く、調子に乗ってグビグビとやったものだから、ホテルは道を隔ててお向かいだったのに、歩道から車道に下りる段差にガクッと躓き、路面電車のレールにも足を取られてヨヨヨっとなり、かなり酩酊して帰ったことを覚えている。Hotel Würzburger Hofも何ともロマンティックな宿であった。

 受胎告知が3月20日だと書いたら、友人から疑義を唱える意見が送られてきた。だが彼は資料に当たって、かつて受胎告知が3月25日に定められていたことを発見し、中世においては祝日であったと知らせてきた。問題は聖ガブリエルが捧げる白百合が(ヴァージンリリー、夏の花だが)3月25日に咲いていたのかどうかの課題に移る。花言葉の発生が果たしていつなのか、安易に調べた限りではギリシャ時代からのものとする意見と14世紀以降とする意見ふたつに分かれる。しかし植物学的に考えれば、パレスチナの気候は一年中温暖であり球根から発芽するヴァージンリリーが3月末に花咲くことは十分考えられることである。

 コリン・ウィルスンが、むろんエッセイで念頭に置いているのはイギリス・ロマン主義でありワーズワースやバイロンだが、私はワーズワースもバイロンもしっかりと読んだことがないので彼の云う人格からの逃避が実は何を意味するのか解らない。マリーエンベルク城からの帰途、アルテ・マイン・ブリュッケ(マイン川に架かる古橋)の橋上で夕暮れの空に見入る人びとに紛れてしばらく空を眺めていた。


 
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