台峯日乗89

ドイツ

ライプツィヒからチューリヒへ帰る途中、バッハの生まれ故郷アイゼナハを過ぎた頃だろうか、北ヨーロッパの空に表情豊かな雲が広がっていた。

 真夜中過ぎ、星空の向こうに、あの世から更に向こうの世界へ行ってしまうからさよならと、母の声を聴いたというセンチメンタルなアネクドッツ(小話)の背後には恐らく、クレーの絵のことを考えていた事情が作用していただろう。というのも、例えば美学研究者たちはクレーの絵画は現実のなかにある非現実の世界を描いていると主張するが、では現実の世界のなかの非現実とは一体何だろうと腑に落ちないでいたからである。

 耄碌したせいか年齢を重ねたせいか知らないが、最近、私は眼に映る(現実の)風景を見ながら、これはただ網膜に反映された画像であり、それが脳に伝えられた情報であって、実は世界の実在はその向こう側に、目には見えない何処かにあるのではないかとの思いを強く感じていた。ある種の自然のなかでは、それが世界の実在そのものに見えることがある。人間世界の風景は余分なものばかりで出来ているからである。

 私たちの心も、記憶や忘却、(え〜と誰だったっけ『記憶と忘却』を書いたのは、モーリス・ブランショ?一行たりとも理解できなかった青春の読書だったが)愛着や嫌悪、将来(を考えること)などという余分なものだけで出来ている。あたかもそれが現実(重要性)であるかのように思い込んで私たちは翻弄される。

 時間と空間が同質であることを、これも青春の読書だが、マルティン・ブーバーから学んだ。いま、母の声の幻想を思い起こして、世界の向こうにあの世があり、その向こうに別の世界があるという観察は、やはりクレーの絵画から示唆を受けたものであろう。クレーが描いたのは此の世から見えるあの世であり、あの世から見える此の世なのだが、伸縮自在な空間と時間をメソッド(方法)として用いた現代絵画の嚆矢であろう。

 先日「クレーとカンディンスキー展」を観ながら、イメージの、現実から非現実への先駆者であったカンディンスキーがバウハウス期以降「装飾画家」となっていく消息をあらためて知ったが、1929年、休暇先のフランス南西部アンダーユの海岸で撮った二人の記念写真は、二人の芸術家が如何に時代精神を生きていたかの証左であると思えた。いま、そのことの詳細を記す力が私にはないが、真夜中の母の声はそれを云っていたように思う。

アンダーユ



 

台峯日乗 88

Evi at Auction

話が相前後するが、スイスでの要件のひとつはコーンフェルト・オークションに行くことだった。

 オークションで何か作品を競り落とす予定はなかったが、老コーンフェルトに会えるのもこの先たびたびという訳にはいかないから、今年から出来るだけ多く彼の顔を見に出掛けようと思っている。今年のオークションは比較的地味なもので、特に目立つ名品もなく、かと云って貧弱な内容では決してなかったが、いかにもプロフェッショナルと堅実なコレクターの集いの感を強く持った。

 エヴィ・コーンフェルトは今年93才、博士号を持つ歴とした美術史家でもあるが、なによりもオークショナーとしてのキャリアは世界で一番長く、今年もメインセールの後半に登場して、ときどきトンチンカンな遣り取りを交えながら、会場を笑わせ、何よりも芸術作品への愛情とは何かを身をもって示した。本来オークションとは、芸術作品と市民社会とを繋ぐ接点なのだが、昨今の経済ゲームに与されてからそれは希薄である。辛うじてコーンフェルトのところだけが僅かに古き佳き伝統の匂いを保っている。

Kornfeld dinner これも古き佳き伝統の一環だが、その日オークションに参加した人はみな、ディナーに招待される。作品を買った人も買わなかった人もおしなべて同様にご招待を受けるのである。このことがエヴィの思想を良く物語っている。かつてはコーンフェルト家の大広間で開かれていたディナー・パーティーだったが、今は人数も増えて賄いきれなくなり、ホテル・ベルビュー・パレスのサロンを借り切って行われる。今年は130名ほどだったろうか、大晩餐会であった。とても美味しかった、お腹いっぱいいただいた、デザートまではとても手が出なかった。



 老コーンフェルトのテーブルを訪ねて彼にお礼を云うと、これが93才かよ〜と思わせるほどの強い力で手を握られながら「来てくれてありがとう!」を三度も繰り返された。どう考えても逆だ、お礼を云うのはこちらの方だろう。「むかしはあんなに多くの日本人ディーラーが来ていたのに、今日はおれ一人だったね」とエヴィに云うと、首を小刻みに左右に傾けながらなんとも云えない面持ちが返ってきた。

kandinsky その前日はクレー・センターの新企画展「クレーとカンディンスキー」の内覧会と内覧会ランチに招かれ、毎日美味しい食事に招待されるハッピーな週であった。すでにクレー・センターを退職しているが、チーフ・キュレイターを務めていたクリスティーネ・ホプフェンガルトが6年もかけて制作した展覧会は実に見事で、20世紀前半を代表する二人の画家の、友情と相互の学びとライバル関係が浮き彫りにされている。晩秋から来年1月のかけてミュンヒェンのレンバッハハウス美術館に巡回されるので、私にはもう一度くらい観る機会が与えられるだろう。





 

台峯日乗 87

ゴーギャン
サマセット・モームが『月と六ペンス』で触れたゴーギャンの大作「われわれは何処から来たのか、われわれとは何か、われわれは何処へ行くのか」を初めて観た。

D'ou Venons Nous, Que Sommes Nous, Ou Allons Nous

 1990年の頃、桜井淑敏さんが主宰するRCI倶楽部の機関誌"Quatro Stagioni"にジェンダー論、論とは云えない、ジェンダーについて書かせて戴いたとき、モームの同小説を引用して「女とは何か」を考えたことがあり、しかしどうしても絵の題名が思い出せずにそのまま放置した。爾来、いつかはこの作品を観にボストン美術館に行かなければならないと期していたのだが、機会が訪れないまま25年が過ぎた。

 先週の火曜日、アートバーゼルを抜け出してバーゼル郊外リーエンにあるバイエラー財団へゴーギャン展を観に出掛け、なんと憧れの大作を目の当たりにした。会期終了間近とあって相当な人出だったが、日本で同種の展覧会が開かれると、たいがい絵など観ていられないほど混雑でごった返すが、ここではゆっくりと、25年待った感慨を味わいながら鑑賞した。モームはこれを何処で目にしたのだろうか。

『月と六ペンス』はゴーギャンをモデルにした芸術小説で(そんなカテゴリーがあればの話だ)、詳細は何も覚えていないが、画家を取り戻しにヨーロッパからやって来た女性に「彼はわたしの男です!」とタヒチの少女が小気味よいセリフを吐く場面がなかに出てきて、それがとても気に入ってエッセイに引用したのだったと思う。

 スイスでの用事を済ませ週末はライプツィヒに移動した。

Leizig_Rathaus 旧市庁舎にバッハのバナーがはためいていた。毎年この時期に開かれているバッハフェストに来る機会をねらっていたのだが、今年はじめて果たせた。日曜日の最終コンサート、バッハフェスト108番目のプログラムはロ短調ミサ曲で、どうしてもそれが聴きたくて、5月にはインターネットで切符を買っていた。手元のCDはクレンペラーの名演で、渡欧前、何度か聴き入って曲想を覚えまでしていたから、当夜の演奏は身体に染み入るものであった。

 春先、したたかに酔って真夜中過ぎにベランダで煙草を吸っていたとき、星空の向こうに母の声を聞いた。物理的に聞こえたわけではない、年を取って物忘れが激しくなり目が霞み耳が遠くなるのは自然だが幻聴が始まると先は長くないという、まだそこまで耄碌した訳ではない、母の声は声にならない声であった。母(の声)によれば、いままであの世にいて地上を見てきたが更に次の世界に入ってしまうのだという。もうお別れだわと彼女は云った。

 クレーの絵を観ていると、われわれの目に見える世界とは違った、もうひとつ向こうの世界を描いている気がしてならないのが、更に向こうの世界というロマンティシズムが私に芽生え、酩酊の底で母の声となったのであろう。さよならお母さんと私も云った。

 どなたかの葬儀に間に合うよう作曲を急いだロ短調ミサ曲は、しかしその完成がバッハの死の前年のことであり、一から順に譜面を書き上げたのではなく、曲のそこここにかつて作曲したカンタータが数多く用いられる。手抜きのように思われるかも知れないが、さに非ず、こうした自己引用と再構成こそがバッハの天才を物語っている。バッハは江戸期の人だが、その意味で彼は近代人なのである。

 バッハその人が堂内に眠る聖トマス教会で聴くロ短調ミサは格別だ。演奏に1時間40分を要する大曲は、最後まで息をつく間もなく音の空間に聴衆を誘った。終曲が始まると例によってポロポロと涙が流れた。これで私も自分の葬式を済ませたような気さえしたが、一昨年死んだ妹、昨年死んだ弟への供養でもあったろう、またここ数年の間に失った友人たちの魂をも思った。涙はしかし、バッハの崇高な芸術に触れて出てきたものでもなく、他界した家族や友人への哀しみでもない。あの世の更に向こうの世界に行ってしまう前の母と一緒に、この曲を聴きたかったと思ったせいであろう。



 

台峯日乗86

ヴェネチア

ギュンター・グラスの話を続けよう。

 私が初めて彼を訪ねたのは1975年、西ベルリンのニート通りにあるグラスの居宅だった、展覧会プロデューサーとして独立したばかりだったから、何でもやってみようと思っていた。青春期の読書は一生を決める。グラスの作品を夢中で読んでいた19才の頃、ああ俺はこの人に会うことになるなと夢想した。6年後、実際にグラスを訪ねることになったのは幸運としか云いようがない。

 グラスは59年発表の『ブリキの太鼓』で、小説家として国際的に知られるようになったが、それ以前、戦後すぐにベルリンとデュッセルドルフの美術アカデミー(デュッセルドルフ美術アカデミーはかつてクレーが教授を務めた学校だが)で彫刻を学び美術家を目指した。グラスには多くの版画作品があって、非常にユニークなものだが、その展覧会を日本で開きたいと思い、当時グラスの版画を扱っていたアンゼルム某というベルリンの画廊を探し当て、彼に手紙を書いて是非日本で展覧会を開きたいと申し出たのがきっかけだった。

 ニート通りのグラス家を訪ねた日の感激は忘れない。展覧会は翌76年だったか、77年だったか、会場は渋谷パルコ、グラス夫妻を日本に招いた。まだ羽田空港の時代だ。飛行機代はゲーテ・インスティテュート・トーキョーが負担してくれたが、日本国内の旅行費用は展覧会のマネージメントから捻出したのだったと思う。覚えていない。雑誌『スバル』『世界』『朝日ジャーナル』で特集を組んでいたので数日は東京にいたのだが、それから彼らを連れて四国旅行をした、いや違う、四国旅行をしてから東京に戻り、それから雑誌の取材やら、大江健三郎との対談やら、朝日講堂での講演会やらが開かれたのだった。四国旅行をしたことに特別な意味はなかったのだが、何となく勘で高知へ行った。これが大江健三郎を喜ばせることになる、まあどうでも良い。グラスが日本へ来る前、私は大江の小説の英語訳をグラスに送り、彼はそれを熱心に読んでから日本へ来たので、大江はグラスとの対談でグラスから小説を評価され、その後フランクフルトのブーフメッセでグラスとの対談の機会に恵まれ、やがて大江のノーベル文学賞受賞へと繋がっていく。このことは誰にも話していない。

 ダンツィヒ三部作『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』が私の青春の読書だが、高知桂浜の何とかいう有名な旅館に5泊しながら、毎日、西へ東へとレンタカーでドライブし、海岸へ下りては近所の魚屋で買った食材を焚き火で料理して楽しく過ごした。それが『ブリキの太鼓』の一場面そのものだったと、後日、高本研一先生から指摘され、ああそうだったのだと納得したのだが・・・。

 高本先生は、私が尊敬できる「数少ない」大学教師のお一人で、浦和高校(走り高跳び選手)→東大文科三類→都立大教師の、絵に描いたような秀才でいらっしゃるが、ほんとうに可愛がって戴いた。青春の読書で、高本先生訳のグラスを読んでいなかったら私はまったく別の人生を歩んでいたのだと思う。

 昨日グラスの死を電話で報せてくださった飯吉光夫さんと高本さんと三人で、羽田空港にグラス夫妻を迎えにいった。帰国するときもそうだった。飯吉先生はパウル・ツェランとグラスの詩の翻訳者、お二人にお世話になって私とグラスが繋がったのだった。

 日本旅行に来た頃、グラスは前妻アンナと別れて間もなかったが『ブリキの太鼓』を献呈したアンナ・グラスはバレリーナで、そのためダンツィヒ三部作にはバレエの話がたくさん出て来るのだが、日本に来たときは新しい伴侶ウテを伴っていた。ウテはベルリンの教会のオルガニストで、どのように彼らが出会ったかという話を四国旅行のときに聞いた気がするが内容は忘れてしまった。

 私がグラスとの行き来で最も幸せだったのは、展覧会の翌年だったか、グラスがベルリンを引き払ってドイツ北部の農村に移住し、19世紀に建てられた古い農家を改装したものであったが、その家を訪ね4、5日逗留させてもらったあの時だ、いろいろ思い出はあるが、ちょうど彼は次作『ひらめ』を執筆中で、最上階のアトリエに私を連れて行き、俺はこうやって小説を書いているのだと、彼が言葉を紡ぎ出す現場を見せてくれたことだった。昨日書いたように詳細は拙著に記したので、ジジイのように同じ話題を何度も繰り返して書くのは止めよう、いや、正真正銘のジジイなのだが。グラスの思い出を書いていると止め処ない、20代のことだ。ウテにはお悔やみの手紙を書こうと思う。

 昨年のクリスマス、イヴとクリスマス当日、ヴェネチアにいた。夢のような旅であったが、観光客相手のヴィヴァルディ『四季』を聴きに行った、だが、ヴィヴァルディが生きていた時代、たぶんヴィヴァルディもあのようにして夜毎貴族の家で演奏していたのだろうという気がしてむしろ楽しかった。クワトロ・スタジオーニを身近に感じた瞬間だった。それからアッシジへ行った。ヴェネツイアを発つ朝、船着場で海が綺麗だった(写真)。






 

台峯日乗85

Guenter

ギュンター・グラスが死んだ。

先ほど飯吉光夫さんから電話を戴いた。「おい、グラスが死んだよ」「え、何歳になってましたっけ?」「87歳だったってドイツの新聞で配信された」しばらく話をして電話を切ってから、1分後、NYのマシュー・プライスからメッセージが送られてきて「マコト、もう知っているかも知れないが貴方には悲しいニュースだ、ギュンター・グラスが亡くなった」

 昨年9月、娘とドイツ旅行をした帰りの飛行機からオーロラが見えて、それを掲載したブログを最後に何も書かないでいた。正直云って、もう私には文章を書く意欲が消え失せたせいか、おーいオーロラのピンボケ写真が載ったままだぞー!と友人たちにも云われ、半年以上ブログが書けずにいた。

 私とグラスの出会いと経緯については、20年前の拙著『芸術の非精神的なことについて』に詳述したのでここでは繰り返さないが、飯吉さんが電話で「高本さんも死んでるし、日本でグラスの友人と云えるのは俺とあんたぐらいだからな」と仰っていたが、生意気かも知れないが、私も先月65歳になって立派な初期高齢者なのだから生意気もくそもない年齢で、確かにその通りだ。高本さんとは、グラスの小説をお訳しになった高本研一先生のことで、私の恩師だが、いや高本さんの学生だったのではなく、私の恩師としか云いようのない人である。

 不思議だ、終日、北鎌倉の家に居て、氷河期のような季節外れの寒さを嫌いながら、ふとギュンター・グラスのことを思い出していた。最後に会ったのはちょうど10年前だった。その日リューベックの彼の事務所を訪ね、私を見るなり「なんと俺は77才になってしまった!友よ!」とニコニコ笑いながら久しぶりの再会を歓迎してくれた。クリスマス・マーケットの時期だった。

 日本の新聞にも明日の朝刊には死亡記事が出るかも知れない。が、現在の日本にはグラスの読者などいない。大江健三郎が追悼記事を書くかも知れないが、私は万延元年のフットボール頃までは大江の愛読者だったが「私は戦後民主主義なのでご辞退します」との文化勲章辞退記者会見を知ってから大江は嫌いになったので、それを読むこともあるまい。何とかいう大学教師が岩波からグラスの評伝を出していたがスッカスカで批評する気にもなれなかった。

 グラスは自伝『玉ねぎの皮を剥きながら』を出版する直前、記者会見で「実は私は戦時中ナチスSSのメンバーだった、しかしあの時代、少年たちはみな疑問も抱かずナチスに従属することは自然だった」と吐露して、「私のノーベル文学賞がそれで剥奪されるなら、それでも構わない」とヤンチャな発言をして、世界中のグラス評価を二分させた。あの人ならやりかねないわよと、その頃の私のパートナーがぽつりと云っていたが、そんなことはどうでも良い、グラス文学の価値は今後の歴史が判断することであるし、私には青年期の読書の重要な文学であったから、評価など二の次なのだ。

 ちょっと目が覚めた、これからは余り間を開けずにブログを書くことにしよう。

台峯日乗 84

オーロラ

なんの写真なのか分からないかも知れないが、オーロラである。

帰りの飛行機から見た。チューリヒを午後1時に発って、おそらくシベリア上空のイルクーツクとかオムスクとかの上空を通過中のことであろう、いや、一昨日はいつものルートと違って、北極圏ルートを飛んでいた。風の関係だろう、ユーラシア大陸の北辺を飛行するとアナウンスがあった。

それにしても何の幸運か、私は1972年以来、数え切れないほど多くヨーロッパを訪ねて来たが、30年以上も前のことか、シベリア上空からオーロラを機内から眺めたことがあった。それ以来の出来事だった。

娘を連れてふたたびヨーロッパに出た。6月7月に次いであまり時間を置かない渡欧であったが、それなりの理由があった。デッサウのバウハウス財団を訪ね、それからベルリンとミュンヒェンに立ち寄って帰ってきた。デッサウでダニエル・シャヴィンスキーに会った。父親サンティ・シャヴィンスキーはバウハウスに学んだときクレーとカンディンスキーの学生であった。シャヴィンスキーはそのままバウハウス校に留まり、舞台工房の助手を務め、そのほかにも絵画、立体、ダンスなど多くの成果を残しているが、近年、アヴァンガャルドの旗手としてその再評価が著しい。

シャヴィンスキーが残した資料の中にバウハウス・ジャズ・ダンスの衣装デッサンがある。1920年代のアメリカジャズダンスを真似てバウハウス舞台で演じられたものであろうが、写真も映像も残ってはいない。畏友トルステン・ブルーメが、お前の娘が再現するなら世界初と云うことになるよ、と声を掛けてくれたので、娘を連れてデッサウに行き、ダニエル・シャヴィンスキーに会ったというわけだ。娘がチャレンジする気になったかどうかは未だ分からない。

二人でベルリン、ミュンヒェンへ行き、ベルリンのコーミッシュオパーで『真夏の夜の夢』を観た。コミック・オペラ劇場の意だが、国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラと違ってこの劇場では自由で実験的なオペラが上演されることが多い。私はかつて此処で、舞台装置の制作費がほとんど掛からない有名なセビリアの理髪師を観たが、真夏の夜の夢は、むろんシェイクスピアの戯曲をベースにしたもので、ベンジャミン・ブリテンの音楽は素晴らしく綺麗で、藤原真夏という武将がいたがそれは関係なく、ブリテンは謡曲『隅田川』を敷いたオペラ『カーリュー・リヴァー』の作者だが、二列目の上等な席で並んで観た娘は、何の予備知識もなく観たアヴァンギャルドなオペラにいたく感動していた。舞台芸術とはそんなものであろう。ブリテンのオペラを初めて観たが、音楽の美しさに打たれた。

真夏の夜の夢の話をしていては切りが無い。私の大好きな戯曲である。ベルリンの舞台(演出)は殊の外下品な場面もあり、観客は笑うに笑えない場面などもあるのだが、アヴァンギャルドが真実を突く有効な手段であることを今さらながらに示していた。楽しい旅行であった。そして帰りの飛行機からオーロラが見えた。



 

台峯日乗 83

Tunisia_1914

ヘッセに「むかし千年前」という詩がある。

むかし千年前は、90年代に桜井淑敏さんが主宰したRCI(レーシング・クラブ・インターナショナル)のクリスマス会で初めて朗読し、天才ピアニスト深井克則とのコラボレーションだが、それから何度かは人前で読む機会があった。ヘッセ最晩年の詩で、夜中にふと目を覚ますと、竹林が風に音をたてて何かを物語っている、というような一節があり、正確ではないが、吉本隆明の『母型論』に、自然のもの音がことばに聞こえるのはミクロネシア(だったかな?)の小民族と日本人しかいない(これも曖昧な記憶だが)との説があり、へぇ〜ドイツ人にも自然の音が言語に聞こえるんだ、と意外な感想をもったものだ。そんなことはどうでもいい、

 ちょうど100年前の昨日、8月4日に第一次世界大戦が勃発した。最初の戦闘(ドイツ軍侵攻)が行われたベルギー(ブルージュ)に世界50カ国の代表が集い式典が開かれたと今朝のBBCニュースサイトにある。むろん日本も間接的な参戦国であったので、式典に列席した筈だが、安倍総理が参加したのか、どなたかが代理列席されたのか、私は新聞もテレビも観ないのでわからない。

 この年1914年の4月、クレーは二人の画家仲間ルイ・モワイエ、アウグスト・マッケとともにチュニジアを旅行する。クレーにとっては非常に大事な旅行であったが、これをテーマにした展覧会はこれまで開かれることがほとんどなかった。今年、ようやく「チュニジアへの旅、1914」と銘打ってクレー・センターでの展示が実現した。6月末、私は娘を連れてベルンへ行ったのだが、残念なことに当展の会期には一週間、間に合わなかった。巡回展はない、今年ベルンでのみの開催、是が非とも観なければならない展覧会だった。いまカタログをぺらぺら眺めながら、しまったな〜と思いつつ、タイミングだから仕方ないと諦めること頻りである。

 チュニジアに同行したマッケは開戦と同時に従軍し、9月ヴェルダンで戦死、奇妙なことにクレーはマッケの戦死について『日記』では触れていない、いや、少し書いていたか、マッケの死後、身重のマッケ夫人をミュンヒェン中央駅に迎えに出たのはクレーだったような気がするが、これも思い違いかもしれない。いや身重だったのは1916年に亡くなったモワイエ夫人の方だったか、ちゃんと調べずに記事を書くと、話がごちゃごちゃといい加減を極めることになる。

 100年の時間を経て、敵味方で闘った欧羅巴は、いまや仲間でありひとつであり、平和の内に歴史上初めての時代を共有していると、ジェイムズ・キャメロンが式典の挨拶で話していた。ニュースを丹念に読んでいたら、興味深い記事がたくさん出ていた。昨夜イギリスでは、午後10時から11時までの一時間、あらゆる電灯を消してキャンドルを一本だけ点すパフォーマンスも行われた。これは午後11時に当時のイギリス政府が宣戦布告を発したことを記念して、時の外相エドワード・グレイ卿が前夜「ヨーロッパの灯りがすべて消されることだろう、生きてるあいだに二度と光を見ることはあるまい」と言ったことに発想された。

 1914年〜18年に1700万人の兵士と市民が犠牲者となった。考えられない数字である。昨日さまざまな場所で記念式典が行われたが、サン・シンフォリアン墓地(ベルギー)でのイベントが大きく取り上げられている。墓地は1917年にドイツ軍によって作られたもので、大戦後イギリス軍が占領、現在約500基の墓石が建っており、半数はドイツ軍兵士の、残り半数がイギリス軍並びに連合王国兵士の墓石という象徴的な、ユニークな戦争記念物である。式典では、ロンドン・シンフォニー・オーケストラのメンバーとベルリン・フィルのメンバーによる混成楽団がサイモン・ラトルの指揮で『ドイツ・レクイエム』を演奏したらしい。私はブラームスのこの曲が子供の頃から好きなのでぜひ演奏を聴きたかったが、聴きに行く可能性は皆無であったろう、あたりまえだ。

 ロバート・グレイヴスの息子が「戦争は父をどのように変えたか」というインタビューに応えている。インタビューの内容はあまり良く理解できなかった。が、グレイヴスは私の好きな詩人のひとりで、第一次大戦に大きく関わっている(戦争詩で有名になったが、後年グレイヴス自身が戦争詩を著作集から削除)が、私は特に2、3の詩を愛唱するだけである。彼は長らくマジョルカ島に暮らしそこで亡くなった。ロンドンの友人アンドリュー・サンダース(先月会ったばかりだが)がグレイヴスの娘さんルチアを良く知っていたので、私がマジョルカ島滞在中、一度訪ねてみてはどうかと云われ、大喜びで楽しみにしていたのだが、なかなか機会が訪れないままになってしまった。グレイヴス宅のある海辺の集落デイヤには何度も行く機会があったのだが・・・。グレイヴズの死後(1985)旧宅は記念館となっている。そのうち伺う機会があるだろう。

 余談だが、第二次大戦後、マジョルカ島のグレイヴスを訪ねた若きアラン・シリトーは、詩人の示唆で作家を目指すようになり『土曜の夜と日曜の朝』『長距離ランナーの孤独』などを書いた。私はシリトーも好きだ。

 
続きを読む >>

台峯日乗 82

アルプス山頂

4月以来ブログを書いていなかった。

 忙しいわけではなく、ブログ記事への興味が薄れてきたせいだ。面倒に感じている事情もある。ただ、ブログを読んで「あぁ、あいつまだ生きてる」と思ってくれる読者も多いので、安否確認でたまには投稿しなければならないのも当然だ。猛暑で頭脳が働かない、横柄な物言いをお許しいただきたい。あいかわらず旅の話題だ。

 暗くて顔が分からない上の写真は、右がシュテファン・フライ、左が筆者、スイス・ベルンアルプスの裏側、イタリア国境にほど近いヴァレー地方のエッギスホルンに登った。登ったと云っても脚で登ったのではなく、ベルンから列車を乗り継ぎフィエッシュ駅からロープウェイに乗れば簡単に行ける。シュテファンが汽車賃も何もかもおごってくれた。

 というのも、6月下旬、私は娘を連れてヨーロッパ旅行に出掛け、娘には12年ぶりのヨーロッパだが、あのとき訪ねたベルン・アルプスの山をもう一度歩きたいと彼女が云い、それを聞いてシュテファンが、いや、もっと高い山から氷河を眺めようと云って、私たちをエッギスホルンまで連れていってくれた。急ぎの論文があって、申し訳ないが滞在中はお相手ができないと伝えてきたシュテファンだったが、この日、むりやり時間を作って雪山に私たちを招待してくれたというわけだ。

 左下に見えるのがアレッチャ氷河、アルプスではいちばん長い(32キロだったかな)、写真はむろん娘が撮ってくれたが、パパは渋谷にいてもアルプス山頂にいても服装がまったく変わらない!と大笑いしていた。それにしても360度のパノラマは滅多に眺められる風景ではない、幸い天気予報に反して、ときに雲にも覆われたが、それから山道をしばらく歩いて隣の集落まで行った。

 二週間、娘と二人きりの旅行などたぶん最初にして最後であろう。クレーセンターを案内した。バーゼルのバイエラー財団ではゲルハルト・リヒターの大回顧展が開かれていた。ここ数年、何処へ行ってもリヒター回顧展に出くわすが何度観ても面白い、娘がリヒターを観るのは初めてだったが、基本概念を説明してあげたらとても興味を示して熱心に眺めていた。丹念に見おわってから、頭パンパンだよと漏らしていたが。後日、娘を南仏の友人宅に送り届けてから(彼女はここに8月中旬まで滞在するのだが)、私はひとりドイツを回り、途上、ドレスデン美術学校の卒業制作展を見学したのだが、同校には「リヒター伝統」のようなものが受け継がれているのを目にした。まあ流行り物ではあるが。

ポンピドー3 二人でパリへ出て連歌仲間の瞬星を訪ねた。瞬星の招きでフレンチをご馳走になったが、生まれて初めての本格的なフレンチに彼女はいたく感激した。趣味人の彼らしく気取った店ではなく、フランス人のためのフレンチレストランだから、彼女の初めてのフレンチはオーセンティックなものであった。30年ぶりに凱旋門の屋上へも行ったし、ポンピドー・センターで展示も観た。ポンピドー・センターのフレームの間からサクレクールが見える。近くのクレープ屋さんで美味しい昼食も食べた。



キューガーデン それからロンドンへ行き、旧友アンドリュー・サンダースを訪ねた。娘は彼のフラットでランチやサパーを一緒に作って満足していた。翌日は三人でキューガーデンへ。2年前だったか、3年前だったか、久しぶりにロンドンへ行った私は彼とキューガーデンへ行った(たしか当欄に記事を書いた)。それは3月初旬のまだ寒い時期で花はなにも咲いていなかったが、いまは園内何処へ行っても花盛りだ。

 これは出発前からの約束だったのだが、ハーマジェスティ劇場に『オペラ座の怪人』を観に行った。私は25年前の初演を観ているが、そのとき娘はまだ生まれていない、幕が上がった瞬間、二人ともポロポロ泣いた(泣いた理由は別々だ)。なぜ泣いたかは面倒だから書かない。ロンドンのパブで、フィッシュアンドチップスを一度食べてみたい、という彼女の願いであったが、折からワールドカップのパブリック・ビューで試合の日は立ち席、タイミング悪く、この願いだけは果たしてあげられなかった。

 パリへ戻った日、旅の疲れが出たのか、ふたたび瞬星がフレンチに連れていってくれる予定だったのが、残念なことに娘はホテルで休んでいなければならなかった。体調を整え、雨模様になったパリを離れて、私たちはTGVでアヴィニョンへ向かった。駅にアリョーシャ・クレーが出迎えてくれた。

 私は娘をクレー家に送り届けてすぐにドイツに引き返す積もりでいたのだが、あんた、折角カヴァイヨンまで来たのに一泊で帰ることはないでしょうよ、と妻君のアネットに叱られ、ベルリンでの会合をキャンセルしてもう一泊留まることにした。翌日はみんなでサンレミまで食事にいった。本当に久しぶりだった、夏の陽光を遮る中庭のテントの下で、私はようやく、父親らしいこと(元来そんなものは無いのだが)を怠ってきた10年余りの日々をやり過ごしながら、この夏、娘の願いを叶えることができたと思った。夢のような、まるで新婚旅行のような旅を終えて、私は仕事に戻った(これも嘘だ、私には人生と仕事との境目がわからない)。チャンチャン





 
続きを読む >>

台峯日乗 81

国東半島本宮磨崖仏

国東半島本宮磨崖仏。

 まるでロマネスクそのものだなと、私が云うと「オレも同じこと考えてた、ファインダーを覗いた瞬間そう思った」とアリョーシャが応えた。九州旅行の大半が雨に見舞われ、思ったようには回れなかった。鹿児島を諦め、今回は九州の北半分だけを訪ねる旅にした。

 名高い熊野磨崖仏を見に行ったのだが、土砂降りで、駐車場から350メートル急な階段を登らねばならないと云われ、アリョーシャが躊躇した。仕方ない、近隣に何かひとつ見学して福岡に戻ろうということになった。それで訪れたのが本宮磨崖仏だったが、これはどう見てもロマネスクだ。開基800年代と立て札にあるが、レリーフが彫られたのは10世紀か11世紀のことであろう。中央に剣を持った不動明王がいて、小さな脇侍(これも仏様なのだが)がご主人を見上げている。

高千穂神社 連日のように雨に祟られたとはいえ、楽しい九州旅行ではあった。高千穂神社境内に立つ結びの樹の前のアネット、この樹木の回りを三度回ると縁が強く結ばれると書いてあったので、アリョーシャとアネットとマティアスと私で三度回った。ほんとうは手を繋いで回るのだが、傘を持って手が塞がっていたから、電車ごっこのように数珠繋ぎで回った。堅く結ばれたことだろう。

 一昨日帰宅して、日本史に詳しいジャイコこと若い友人(福岡出身だが)に「やっと帰ってきたよ」とメールしたら、「博多から鎌倉に帰るって、元寇帰りの御家人のようじゃあないですかぁ!」と返事が返ってきた。そうだね。



 
続きを読む >>

台峯日乗 80

阿蘇

日曜日、誕生日を迎えた。64歳になった。

 むかし「フランシーヌの場合は〜」という歌があった、誰の歌だったか覚えていない。なかに「♪さんがぁ〜つさんじゅうにちの(3月30日の)にちよおび(日曜日)♪」という歌詞があって、それだけは覚えている。博多を発って雲仙観光ホテルに到着した夜だ、何気なく(何気ない筈はないが)ホテルに「今日は私の誕生日で、明日はこのフラン人(アネット・クレー)の誕生日なんです」と云った。

雲仙観光ホテルケーキ するとホテルの人が気を遣って、その日のディナーで左様なケーキを出してくれた。まこと様、Happy Birthday! というカワイイお皿だった。むろんアネットにも同様のお皿が出された。結局、私たちはここに3泊した。素晴らしい建物だったからだ。前日「美の巨人たち」なるテレビ番組でホテルの建物が紹介されたらしい、1930年建築家早良俊夫作、硬質の硫黄泉でわたしたちは滞在中、朝に夜にさんざん温泉に入って過ごした。



天草大江教会 二日目、天草へ行った。私たちの誕生日に教会へ行きたかったからだ。大江チャーチが太陽の光りに映えて美しかったが、残念ながら月曜休館とあって御堂の中には入れなかった、それで次に津の教会へ行った。中庭で子どもたちが遊んでいた。教会のなかは静まりかえっていた。

天草津教会 わたしは額づいて神に祈った、どうか罪深きわたしの人生をお許しくださいと、ほかに何を祈ることがあろう、64歳の誕生日には相応しかった。今朝もう一度温泉に浸かってから山を下り、島原外港から熊本までフェリーのに乗った。ホテルにチェックインしてすぐに阿蘇へと向かう。夕刻近く、それでも西の空は明るく、峠に車を駐めて来し方を眺めた、雲の合間から光りが降りていた、遠くに海が光っている。それから山頂に登り噴火口を見た。
それが私たちの住む星地球の姿に見えた。




阿蘇噴火口






 
続きを読む >>

calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>
sponsored links
selected entries
archives
recent comment
recent trackback
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM