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  • 2020.02.07 Friday
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台峯日乗107

 

秋の奈良に遊ぶ。

早朝、鎌倉を発って新東名高速道路を一気に走った。朝食を駿河湾を一望するサービスエリアで採り、昼過ぎには女人高野・室生寺に到着した。

 

 

700段の石段を登って奥の院まで行ったが、前回(3年前?)より楽に感じた。若返ったのではなく、前夜の睡眠時間が短かった割にコンディションが好かっただけだ。快晴であった。それから長谷寺を廻って奈良へ。今回は久しぶりの連歌興行で、冬の歌仙を巻くなら奈良でやろうと誰かが云い出して市内に一軒家を借り(民泊)総勢七名の大世帯になったが、翌日は奈良をそぞろ歩きしながらの実景句を混ぜた、いつになく穏やかな流れに終始した。晩は河豚鍋をつつきながらの夜長であった。

 

帰途、これは慣わしになっていることで、浄瑠璃寺へ詣でた。

 

 

吉祥天女像が開扉の時期に当たっていたので、私のミューズ・女神さまにもお会いすることができた。お庭の紅葉が美しかった。

 

 

伊賀から亀山を経て、来たときのように一気に鎌倉に帰着した。往復940キロの長距離ドライブながら、日頃の汚れを仏たちに託し、非日常の、透明な空気に時間が止まったような旅であった。

 

土曜日(11月30日)の午後、待ちに待った朝日カルチャーセンターでの講座を無事に終えた。待ちに待ったのは聴講者の皆さんではなく私の方だ。7月から資料に当たり始めて、夏のあいだは猛暑でアタマがぼーっとして仕事が進まなかったが、9月からストーリーを組み立て、例によって触れなければならない話題が多すぎることに気付き、余談(余談ではないのだが)をどんどん削ってゆき、最後には90分の講座を上手くまとめることが出来たと思う。当日、同行してくれた某大学某名誉教授(高校からの友人であるが)が、めずらしく「よかったよ」と云ってくれたので、おお合格点だったかと安堵した。

 

「バウハウスのクレー」の演題で話した。それで冒頭にバウハウスとは何か?を持ってきて、バウハウスとは「規律あるカオス(混乱)」だと結論した。規律と混乱は一見矛盾する語彙だが、バウハウス校には学長グロピウスが提唱した技術と芸術の統合というイデー(理念)をはじめ多くの「規律」が存在した、その一方で学内は政治的対立と経済的困難を抱え、何よりも時代背景が混乱を極めた。ダダイズム、ドイツ表現派、オランダのデ・スティール、シュルレアリスムのなど美術運動の急激な変遷、ドイツ国内ワイマール共和国の危うい屋台骨、ナチスの台頭(バウハウス開校の1919年にナチス結党大会が開かれている)、物理的にも精神的にも敗戦国ドイツは混乱の渦中だった。ところが「バウハウス」は、現在にも大きな影響を及ぼしている。ひとつにはヨハネス・イッテンが提案した予備課程(入学した学生は半年間の予備課程の授業を受けてから各工房に編入される)という造形教育のシステムで、これは今日、世界中の美術学校、デザイン学校、アート学校で採用されている。私たちの生活空間で目にする建築、家具、食器その他もろもろ、すべてがバウハウス風(無装飾の意味で)であるが、歴史的にはバウハウス・スタイルと呼べるものは存在しない。歴史的根底でバウハウスは「デザイン」という言葉に初めて〈意味〉を与えたのであり、装飾から機能への謂だが、現代デザインの古典なのである。従って私はバウハウスを透明人間若しくは弘法大使空海と呼びたい(残念ながらこれは講座では話せなかった)、即ち現代生活空間のありとあらゆるシーンに登場する神出鬼没な基本的デザインという意味で(恐らく空海が一度も行ったことのない場所に、全国津々浦々、弘法の清水や弘法の井戸が存在する)。

 

次にバウハウスに於けるカンディンスキーとクレーの授業のことを話したが、ここでは割愛する。私の眼目はクレーと音楽、クレーにとって音楽がなんであったか?であった。クレーの三つの自画像を取りあげ、クレーにとって音楽の意味を解いた。

 

 

左はバウハウスに勤める以前1919年に描いた"Versunkenheit"(深く思いに沈む)、右はバウハウスの教師となった翌年1922年の"Senecio"(さわぎく)である。レンブラントと違いクレーはあまり多くの自画像を描いてはいないが、同じく1919年に描いた自画像連作とそれ以前の自画像群をデューラーの『メランコリア I』と対比して、

 

 

左の自画像をデューラーからの解放と示唆したのだが、それ以前の画像が無いと分かりにくいかも知れない、

 

1910年

 

多くの研究者同様わたしも左側の自画像を「クレーがクレーになった瞬間」の自画像と云いたい(画家としての自覚を持った瞬間)。客観から主観(ショーペンハウアー風に云えば純粋主観)への飛躍だ。ところが右の絵「さわぎく」は明らかに自画像なのだが植物の名を冠して意味を隠している。わたしはこの絵から音楽しか感じない。自画像であり自画像ではない。「すべての芸術は音楽の在り方に憧れる」(ペイター。元はショーペンハウアーだが)へのアプローチなのである。そこでわたしは新しい概念を導入した。

 

sich musifizieren(自己を音楽化する)

 

ドイツ語の辞書にはない造語である。自分を音楽化するという乱暴な概念のヒントになったのは、ハイデガーが『存在と時間』で述べてた「sich zeitigen(自己を時間化する)」なのだが(これもハイデガーが拵えた造語)、おまえいつからハイデガーになったんだ?と聞かれると困るが、クレーは画家としての在りかを音楽に託したに違いないという確信である。

 

第三の〈自画像〉はこれである。

 

1939年「ヴァイオリンと弓」

 

1933年、ナチスの弾圧を身に感じたクレーはクリスマスの前日、突然に生まれ故郷ベルンに亡命する。翌々年の1935年に病魔に冒されたクレーは医師から「喫煙とヴァイオリン演奏を断念するように」と云われる。同じ1935年のクレーのメモ帳が残っている、そのメモには1月から4月上旬まで、三日を置かずに音楽仲間と弦楽四重奏やピアノ三重奏を弾いていた記録があり、その年の秋にヴァイオリンを弾くことを諦めるように云われた彼の心中は如何ばかりであったろうか、聴覚を失ったベートーヴェンに似ているが、音楽を手放さねばならなかった。だが無論クレーのなかにはすべてが残った。翌年はほとんど絵画制作は出来なかったが、1936年から(クレーの)晩年様式と呼ばれる充実の絵画制作が開始される。

 

「ヴァイオリンと弓」はクレーの最期の哀しい自画像なのである。以上が講座の要旨であった。相変わらず説明不足な言い回しだが、要旨については近い時期に小論文にまとめる積もりでいる。当欄にも掲載する。

 

ミーコ(木内みどり)が死んだ。ミーコと私は同い年で劇団四季演劇研究所の仲間であった。10年に一度くらい会っていたが最後に顔を合わせたとき彼女が「新藤君、いい年の取り方してるね」と云ってくれたのが印象的だった。

 

もうひとり知人が亡くなった。谷崎昭男さん、むかし或る同人誌で連載をご一緒して以来知己を得たが、私が6年前に移住した北鎌倉に谷崎さんがお住まいで、そのうち一杯遣りましょうと云ったきり、電車でばったりお会いすることはあったが、飲み会は果たせないままであった。父上は谷崎精二先生、叔父が谷崎潤一郎。

 

今日のように寒い夜はいつも万太郎の句を思い出す。

 

湯豆腐や命の果てのうすあかり

 

 

 

 

 


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