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台峯日乗105

 

生まれて初めて浪曲の実演を観に行った。カタルシスであった。

 

 事の始まりは、3、4日前であったかSNSのどこかに玉川奈々福さんの記事があって、彼女のブログへ行ってみると彼女は以前筑摩書房の編集者だったと書いてあり、ひぇ!そんな人がなぜ浪曲師にと驚いた。筑摩書房とは多少の縁があって、大昔(奈々福さんは未だ入社していなかったかも知れない)モダニズムの詩人西脇順三郎全集を買うために、当時編集部にいた女友だちに頼んで社内割引で購入してもらい、毎月、それを受け取りに通っていた時期があった。それは兎も角、硬い出版社に勤めていた方が趣味で始めた三味線がきっかけで遂には浪曲師になった話は面白く、これもご縁だと思い込んで行ってみたのである。

 

 しかし本当の事の始まりはそうではない。新小岩セミナーで読んでいるアランの『芸術論20講』の元になった『芸術の体系』(これはアランが第一次大戦の従軍中にメモに採った考えを戦後1920年に上梓した書物だが)を読み進めていたら、結局アランが云っているのは「芸術の役割とは情念の浄化である」つまりカタルシスであることに行き当たり、それから現代にも、もしカタルシスがあるのだとしたらどのような体験だろうかと、私はこれまでに見聞したオペラや舞台(芝居)や音楽会をいろいろと思い出していたところに、上記浪曲の会を知って、直感的に、ギリシャ人ではなく日本人にとってのカタルシス(アリストテレスが『詩学』で展開した、悲劇の中に恐れと憐れみを観るー体験するーことで精神が浄化されるというのがカタルシスの意味なのだが)が浪曲にもあるに違いないとの思い込みから出掛けて行った。

 

 更に実の、本当の事の始まりは、11月の朝カル講座で「バウハウスのクレー」を取りあげクレーと音楽の話をまとめてみたいと思っていて、その延長線上というか下準備でアランに寄り道することになったのだが、情念という言葉を盛んに使う彼の文脈と視点は私にはとても新鮮で、そこにも浪曲が引っかかってきたのである。

 

 さて当の浪曲会「河内山」は至福の時間であった、つまりカタルシスであった。先ず客筋が良い、こんなに浪曲を愛している人たちに混ざって浪曲を聴くのが悪い筈がない、日本でクラシックの音楽会へ行くと必ずしも音楽を愛している人ばかりではないので空気が薄く、私はその場に馴染めない気持ちをよく抱く。それに比べて上野広小路亭のお客は(大半は奈々福ファンだが)演じる人との呼吸を心得ている。それはさておき、河内山とは天保のころ江戸に実在した茶坊主河内山宗俊のことで、その実像とは関係なく河竹黙阿弥が勝手に拵えた大悪人のキャラであり(後に講談に起こされ更に浪曲に起こされたらしい)、例によって物語は荒唐無稽、そうか、荒唐無稽と云えばクレーが惚れ込んで挿絵を描いた『カンディード』を思い出すが、話の中身はマンガなのである。にも拘わらず、何故カタルシス体験なのか、唄と語りと、音曲が始まった途端に聴衆は何処かに持って行かれてしまう。それがどの様な世界(物語)であろうとそれは関係ない、見事な芸(空間)なのである。

 

 帰りがけロビーに出ていらした奈々福姐さんとちょっと立ち話をした。「生まれて初めて浪曲を聴いたんですよ」と云ったらびっくりされた、しばらく奈々福通いになるだろう、いや、そんなことはしていられない、クレーと音楽のことを哲学的に考えねば。

 

 

 

 

 


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