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台峯日乗101

 

昨日、汐ちゃんを抱いた。

汐ちゃんとは、三日前に生まれた私の孫娘である。余りにも小さくて驚いた、私にはかつて4人の子どもたちが生まれた直後に抱き上げた経験があるが、こんなに小さかった覚えはない、顔はまるで醤油皿の大きさで、授乳を済ませたばかりだったので彼女はぐっすり眠ってしまい、眠る顔だけを見ていた。最初の孫を抱いた人なら誰でも同じだろうが可愛くて可愛くて堪らない。未だ3Kgにも満たない彼女はそれでも暫く抱いていると重く感じられ腕が痺れた。

 

久しぶりに新小岩セミナーがあった。新小岩セミナーとは以前当欄に書いたが、高校時代の友人(先輩)Wと駅前のファミレスで由無し事をべらべらと喋るだけで私は受講者として解らないことをもっぱら質問する。この冬、ハイデガー『芸術作品の根源』読書会をやろうとどちらからともなく云いだしたが、一向に始まらない。私は2回読んでおおかた60%を理解したがどうしても理解できない箇所が多くある。

 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を読んでいる。今年2月、日独文化交流のNPO法人が連続講演会の一環で私に講演依頼があり「バウハウスの舞台工房」の演題で話す機会を得たが、キーワードを表象としたので年末から読みはじめた。講演の出来不出来は別として教えられることが多々あった。私は限りなく読字障害に近い遅読癖なので、年末から読みはじめた三巻本の第二巻に入ったばかりだが(先週、閑話休題で荷風の『葛飾土産』文庫版を読み、巻末で石川淳がケチョンケチョンに荷風をこき下ろしているが賛同は保留する)、西尾幹二の訳は丁寧でとても読み易い。しかし理解可能な部分と不可能な部分がある。理解不可能な部分は後日の再読に委ねるとして、読み進めながら分かったことは、ハイデガーの役割(の重要性)である。

 

胆のう全摘手術を受けて数日入院していた二年か三年前、木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』を耽読して以来ハイデガーに魅了されたことは書いたと思う。更にその数年前、ハイデガー『芸術作品の根源』読書会(ドイツ文化会館)に参加したことでクレー芸術との関連を考え始めたが、今回、ショーペンハウアー著述の中にハイデガーがちょくちょく顔を出していることに気付いた。

 

荒っぽい云い方を怖れずにすれば(荒っぽ過ぎるが)、つまりこういうことなのだ、古代ギリシャ哲学が忘れ去られイスラム語に翻訳されて永いあいだ眠っていたその文脈がラテン語に再翻訳され、科学(の概念)の登場で世界(観)は魔術から物理として再構築され、更に反転して、形而上学を解体してしまった懐疑主義者ヒュームに真っ向から立ち向かったイマヌエル・カントが登場する。カントの三批判書はまだ本文を読んでいないので何も云えないが、ショーペンハウアーがカントを批判しつつデカルトの「イデア」を主人公にして描いた『意志と表象としての世界』があり、ヘーゲル、ニーチェその他大勢のドイツ観念哲学の保守本流へと続く。ハイデガー『存在と時間』は、これらの文脈をすべて整理整頓し、哲学(形而上学)が何を目指してきたのか、何処へ向かおうとしているのかを、卓越した調査能力と編集能力でまとめた著述であることに気付いた。ハイデガーは自身哲学者であるが、それ以上に、もの凄く優れた哲学研究者哲学史家なのである。この荒っぽい物言いに、新小岩セミナーの論理学者Wも苦笑いをしながら否定しなかった。

 

J.M.W.ターナーの水彩画『ベルロック灯台』(1819年)を上に掲げたのにも意味がある。実は引用の美学という概念を拵えようとしているのだが、ここで云う美学とは学術用語のエステティックスではなく、例えば男の美学などと愚かな云い方をする場合のそれである。北斎『神奈川沖浪裏』が波の伊八作「行元寺欄間彫刻」と瓜二つであることに私も当初は戸惑い、これは明らかに北斎の剽窃だと思ったのだが、浮世絵研究者にもインタビューして意見を求めたところ同時発生的な偶然だと主張した。上述ハイデガーの事情を吟味するうちに、いやいや待てよ、それは剽窃ではなく引用と呼んだ方がいい、浪裏と行元寺欄間のコンポジションはまったく同じであり、むろん欄間が先に作られ(1804〜9年)浪裏はそれから20年以上も経た1831年に刊行が始まる富嶽三十六景の一枚である。北斎が伊八をそっくり真似たことは、北斎の価値を損なわせることではなく、逆である、伊八の構図をそっくり引用したことで北斎の慧眼が賞められるべきであり、それによって近代絵画の世界的な扉を開いた。ハイデガー『存在と時間』にどこか相似した引用の美学の、編集美学の、プロデューサー能力の営為なのである。しかし北斎も迷ったに違いない、もし未だ生きているなら本所辺りの画室を訪ねて「ねえ、どうなの?」と聞きたいところだが無理だ。ターナーの波こそ同時発生的なイデアなのである。

 

 


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