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台峯日乗 97

今宵『魔笛』を観た。

 

 両国のシアターΧ(カイ)が毎年夏に上演してる入場料1,000円の「あえて、小さなオペラ『魔笛』」である。こんな公演があるのは知らなかった、三日ほど前のことだったか、たまたまFBに誰かがシェアした記事を目にして、即、劇場に電話してチケットを予約した。何とも云えない舞台だったが感激した。♫パッ、パッパッパパ〜で始まるパパゲーノ・パパゲーナのデュエットを聴いていたら涙が出てきた、しばらく私に彼女がいないせいだろう、笑。

 

 私は戦後民主主義が嫌いで、従って大江健三郎も嫌いだが、階級社会が好きなので(ホセ・ガルシア・イ・ガセットの影響で)シアターΧの公演の意義には賛同を保留する。フルート1、ファゴット1、ピアノの小編成アンサンブルは悪くなかった、編曲者天沼裕子さん、演出の西村洋一さんも優れている。夜の女王=パパゲーナ、パパゲーノ=ザラストロがダブルキャスト(つまり同じ人が歌っている)、今宵の夜の女王は最高音が出なかったので少し残念、残念ではないがずっこけた、パパゲーノ・パパゲーナの子どもたちが7人登場する、従って観客はその子たちの親御さん親戚、近隣の方々、出演者の関係者で占められ、私のような鎌倉から来たフリー客は殆どいなかったかと思う。

 

 前置きが長くなった、云いたいのはそんなことではない。(口直しと云っては失礼だが、帰りの電車の中からiPhoneに入っているマタイ受難を聴きながら、帰宅して曲を繰り返して聴きながらこのブログを書いている)云いたいのは両国の『魔笛』ではなく、前回の新小岩セミナーで学んだ存在論のことである。『魔笛』は近年ではグルベローヴァの夜の女王に敵うものはなく、今宵の渡邉恵津子さんだって頑張っていたのだから比べる方がおかしい(論理的ではないが)。そうではなく、私が云いたいのは「存在論」である。

 

 存在論には、存在を示す二通りの云い方がある。「〜である」と「〜がある」だが、前者は「AはBである」つまりAの内容・状態はBである、即ち「BはAである」と即座に言い直すことができる。だが後者は何かがそこに「在る」という意味で、S+V+Oの目的語(O)を持たない。何かが無いのではなく、何かがそこに在るという「驚き」は、ギリシャ哲学であり、ハイデガーが発明した概念ではない(アリストテレスだったかプラトンだったか?)。今宵『魔笛』を観て(聴いて)、グルベローヴァと渡邉恵津子さんを比べるのは明らかに前者であるが、その問いには意味がない、「〜がある」のはクレイジーな音楽家モーツァルトの「『魔笛』が在る」の文脈である。存在は、存在である限りにおいて、何かしら光り輝いて起ち上がってくる(vorstellung)存在である。それを存在了解と呼ぶ、それが新小岩セミナーで学んだことであった。

 

 ウィーン世紀転換期の誰かが(カール・クラウスだったかエルンスト・マッハかアドルフ・ロースか忘れたが)言語批判に於いてはメタフィジックス(形而上学)は邪魔だと排除したが、賛成!

 

 今宵『魔笛』を観たかった本当の理由はほかにある。前々回のブログに書いたがベルイマンである。ベルイマンの作品のなかで一番好きなのは『ファニーとアレクサンデル』ではなく『魔笛』だと書いた。ベルイマンの心の内に存在論があったかどうかは不明だが・・・。


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  • 2018.08.26 Sunday
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