麻布の夕暮れ 最終回

ヒルズ・Xmasマーケット

六本木ヒルズにクリスマス・マーケットが出ているというので行ってみた。

 そうだね、そう見えないこともないけど、ドイツのマーケットとは、やっぱ、随分ちがうね。最後に"Weihnachtsmarkt"に行ったのはいつのことか?リューベックだったか、それともハイデルベルクだったか、グリューヴァイン(ワインの熱燗)を飲んで酔い、フラフラと宿に帰った記憶がある。

 その夜、11時過ぎになって、月食を観に外に出た。真上を見たままで首が痛くなった。若い友人画家C.U.から「月食を露天風呂で観ました!宇宙の神秘ですねぇ〜」とメールが届いたが、彼女ははたして何処にいたのだろうか。

 一年が暮れようとしている。今年も良い年だったと思える。

桃源郷への道

MIHO MUseum

週末から芦屋の瞬星邸を訪ね、一昨日東京に戻った。

 実は連歌仲間の瞬星から「自宅にモロッコ・バーを作ってお披露目パーティーやるけど来ない?」と誘いを受け、ほ〜いほいと出掛けて行った。ちょうど彼に届け物があったので、車で行くことにした。往きも復りもあっという間に着いた。久しぶりに東京と関西を車で往復したが、私はやはり運転好きなのか、なんだかアッという間に着いた気がした。

 まあ、瞬星宅での暴飲暴食については改めて書くまでもない、私は3週間前に喫煙を止め、そのためぶくぶくと太って、いま77キロを超えたが80キロになるのは時間の問題、新弟子検査でも受けようか、朝から晩まで、いつものように芦屋の瞬星宅では飲みっぱなし食べっぱなし、ぱなしの日々であった。

 初日は中華五品、夕方5時から始めて11時まで食べ続けた。翌日曜日、モロッコ・バーの建設に携わったありとあらゆる人々を招き、わいわいがやがや、最後はミシュラン二つ★和食料理店「高木」のご主人・ご家族がいらして皆でクエ鍋。滅多に口に出来ない高級魚であるそうな。ワインが20本空いた。私は椅子に座ったまま途中で眠った、例によって。

 それでともかく、途中、有馬温泉でゆったり湯に浸かったりして、初めて有馬温泉に行ったのだが、瞬星宅に3泊、紅葉の奧芦屋の初冬に遊んだ。

 一昨日の朝、芦屋を出てそのまま東京に帰ろうかと思ったが、いや待てよ、そう云えばしばらくMIHO MUSEUMに寄っていなかった、そろそろ今年も美術館が閉まる時期だ、そう思い、信楽のMIHO MUSEUMに立ち寄ることにした。友人の学芸員N・Kさんがあいにく出張中でお会いできなかったのは残念だが、ゆっくりと企画展、常設展を観てまわることができた。

 私とMIHO MUSEUMの出会いは実に奇妙なもので、かつてブログに書いた覚えがあるが、ジジイだからしつこく、もう一度備忘録として書いておこう。

 今から14年か15年前のことである。MIHO MUSEUMが開館したときのことだ。

 ある日、スイスの美術品輸送会社マット・セキュリタスの社長ワルター・ブッツ氏からメールが来た、何月何日、日本のシガラキという場所にある新設の美術館に行くから是非そのとき会おうと。はぁ?シガラキ?

 ちょうどその頃、私は岐阜県の瑞浪という名の、リモートな山奥の村に住んでいた。なぜそんなド田舎に住んでいたかという事情の経緯はまたの機会に譲ろう。で、そんなメールを頂戴したものだから、ハイハイと、指定された日に私はオンボロ車を運転して、岐阜の山奥から信楽の山奥へと彼を訪ねることにした。

 マット・セキュリタスの社長ブッツは、美術品輸送の専門家であるから、信楽の山奥の美術館だか何だかの施設に彼がやってきて、展示作業でもするのだろうと思い、私の出で立ちはジーパンにTシャツ、よれよれのジャケットであった。つまり私はMIHO MUSEUMに到着するまで、MIHO MUSEUMのことも知らなければ、その日がグランドオープンの日だともいっさい知らずにいた。

 夕闇迫る山道を車で恐る恐る上って行くと、やがて道の両側に「MIHO MUSEUM」の立て看板が現れ、標識に従って近づいてゆくと、今度は黒服の青年たちが10メートルおきに立ち並び、丁寧にお辞儀をしながら、一台一台、大半は黒塗りの大型車だが、私の白いカローラも中に紛れて、駐車場へと誘導された。このときになって初めて、おっと、こりゃ違うんじゃない?来てはいけない所へ来てしまってな〜い?と、自問自答することになった。

 いや〜、ブッツがこの日この時間、この場所へ来いといってきたのだから仕方ないが、どうやら、大層な美術館の大層なオープニングに、ジーパンのおっさんが来てしまっている風情なのである。もちろん招待状など無い。

 ことはそれから夢のように運んだ。まずは、いくら私でもとぼけて客に紛れる積もりはない。受付の、できるだけ偉そうな人物を捕まえ「実はですね」と、スイスの美術品運搬会社のこれこれこういう方から連絡を戴いて、まさかオープニングだとは存じ上げなかったので、こんな服装で来てしまいました云々とご説明した。偉いのはMIHO MUSEUMだ。そのような格好をしていても、卑下する様子など微塵もなく、左様でございますか、承知いたしました、スイスからいらしたブッツ様でございますね、お探しいたします、しかしせっかくお見えになられたのですからどうぞ美術館をご見学いただき、後ほどレセプションにもご出席くださいませ、ブッツ様もレセプション会場にもう移っておられると存じますので。

 大したものではないか、どこの馬の骨とも知れぬ(何故この場合馬の骨なのか不明だが)私を捕まえ、慇懃に対応するさまに私は驚いた。後ほどレセプションで知ることになるが、MIHO MUSEUMの運営主体は神慈秀明会という宗教法人であり、その日は信者さんたち総出で招待客の接待に当たっていたのである。

 美術館の見学時間は過ぎようとしていた。少し離れた秀明会本部の建物で直に開館式典が始まるという。私は我が侭を云い、時間が過ぎていてもぎりぎり館内の見学をさせて戴くことにし、足早に展示室を観てまわった。途中、もうぎりぎりで開館式典にお急ぎになりませんと遅れますよと、声を掛けてくださったのが学芸員のN・Kさんで、実はそれ以来たびたびお訪ねすることになったのだ。ご丁寧にありがとうございますと私は応え、学芸員のバッジを胸に付けておられたので、私は私がそこに居るなんとも不躾な経緯をN・Kさんにも話した。

 開館式典にはぎりぎり間に合わなかった。というより、式典が始まってしばらく後に、私は神慈秀明会の本部建物に着いた。ロビーにモニターがあるので、会が終了するまでモニターをご覧くださいと係の方に案内され、ソファに座ってモニターを見ていた。すると、ホセ・カレーラスが歌っているのが映し出された。えぇ〜!?開館式典ってカレーラスを招いて歌ってもらってるのぉ〜!オーマイガー!

 レセプションでようやくワルター・ブッツに会った。会って今日の経緯を詳しく話した。招待されていなければ今日は来てはいけない日だったんだよ、でもあんたのお陰で俺は美術館見学、カレーラスの歌(モニターながら)、こうしてレセプションで飲み食い、という訳さ、と彼にお礼を言った。

 中国系アメリカ人I.M.ペイは、ルーブル美術館前のガラスのピラミッドで知られる著名な建築家だが、その日、レセプションで挨拶に立った彼が、桃源郷への道という(本当にそうだったかな?)MIHO MUSEUM建築コンセプトの話はとても面白かった記憶がある。たしかペイはバウハウス第3代学長ミース・ファン・デア・ローエの事務所で若いときに働いていたはずだ。

 ルーブル前庭のピラミッドに和式屋根の形を被せたようなMIHO MUSEUMのスカイライト部分のデザインは、私はあまり好きではないが、この世からあの世へ、死の世界ではなく美の世界・桃源郷へといざなうトンネルと橋(写真上・ぼ〜っとして何だか判らないと思うが)のコンセプトはなるほど見事だと思う。

 この奇妙な出来事をきっかけにして、その後、むしろ国外で有名なMIHO MUSEUMを、外国から友人や客人が来るたび、おそらく2年に一度くらいのペースで、学芸員のN・Kさんに相変わらずお世話になりながら、この14年あまり通いつづけているのであ〜る。

 

高みへ

Erhebungen

昨日この絵を部屋に飾って女子会を開いた。

 絵のタイトルは日本語で高さとか高揚を意味するドイツ語"Erhebung"の複数"Erhebungen"だから「高みへ」と訳してみた。女子会には、死ぬほどドイツ語が出来る二人(翻訳家・橋文子さんと慶応義塾で美学を教える後藤文子さん、ダブル・フミコ)が来ていたのだから確かめればよかった。

 女子会といっても上記お二人と編集者のJさん、パートナーK、女性4名と私(わたしは女子ではないが)の少人数であったから、ワインで昼食、だらだらと飲みながら夕方までお喋りした。クレーと文学というテーマでディスカッションをするつもりでいたが、ひたすら私一人が熱っぽく語り続け、みんなフニャっとした顔で聞いていた。編集者のJ嬢が「新藤さん、そのシャツ、怪しげな大学教授みたいで似合いますね」と、まったく人の話を聞いていなかったような感想を述べて、とりあえず一段落した。

 壁に飾ったクレーの絵は、今年7月ベルリンで買ったもので、もちろん私が買ったわけではない、或るコレクターが買い、ここしばらくクレー協会で管理している。とてもいい絵だ。ワーッとお股を広げて人が山を駆け上っていくみたいな絵ね。おいおい、あんた方は世間では教養高いと思われてんだから、もうちょっとまともな見方ってないの?まあ、みな酔っているから気にすることではないが。1937年の秀作だ、クレーが東洋のカリグラフィを意識しているのは明白。

 個人情報に関わるので、本人の許諾なくコレクターの名を明かすことはできない。それにしても、突然日本で流行りだした個人情報って何なの?住所氏名電話番号とか、たしかに無関係な人に知らせる必要が無いことはわかる。それは昔からそうだった。急に「個人情報」とかいう馴染みのない概念を了解してしまったのが問題なのだ。

 私がときどき行く都立中央図書館の5階にカフェ・レストランがあり、レストランとか云ってもダサい食堂でしかない。ここでは機械で食券を買い、黙ってカウンターに食券を出して待つのだが、料理が上がると調理場のオッサンが「あんかけ焼きそばの方!、豚カツ定食の方!、チャーシュー麺!」と大声で注文者を呼び寄せる。へ〜、あんな大人しそうなお嬢さん、今日は豚カツか〜!などと周囲の人々は、料理と注文者の相性を考えさせられることになる。あれって個人情報保護法違反ではないかといつも思う。

 そうそう、忘れないうちに書き留めておきたい。NYからの帰り便、逆風が強くて14時間もかかったが、ハリー・ポッター最終章2本のほか映画を何本か観た。何とフェリーニの「8 1/2」(はっか・にぶんのいち)があったので何十年ぶりかに観た。いや〜凄い映画だな〜と思った。若いときに観たのはやはりちゃんと観ていなかったのだと、己の凡人ぶりが分かった。

 映画で映画を考えている映画。つまり詩論で詩を書くのと同じだ。映画言語とはこれだよ〜っと、フェリーニ先生が教えてくれる。その後ジャン=リュック・ゴダールが「気狂いピエロ」でやっている。いやそれで、話はそれではない、8 1/2のラストシーン、あれぇ?どっかで観たよな〜?・・・あっ、ヴィム・ヴェンダース「PINA」のラストとおんなじだ、と気付いた。そっかぁ、フェリーニの影響ってまだまだあるな。

 ピナ・バウシュの映画「PINA」はどうやら来春には日本でも公開されるらしい、ああ良かった、3回くらいは観にいこう。

ナブッコ

MOMAモネ

シチリアから帰って、今年はもう国外に出ることはあるまいと(アルマイト?むかし弁当箱がみなこれだった)思っていたが、あにはからんや、先週火曜日ニューヨークに出掛けて昨日帰ってきた。

 滞在中は毎日、雨に降られて靴の中がぐちゅぐちゅになった。ボロ靴ではないのだが、うっかり水溜まりをバシャッと歩いたりするので、足先の方から水が浸みてきて、一日中歩きまわっているものだから、靴下の前半分ほどを濡らしたままでいる。気持ち悪かった。ホテルに帰って靴の中に新聞紙を丸めて入れ、一晩おけば中が乾くだろうと思いきや、翌朝もつま先の辺りがまだ濡れたままで、そこにまた足を入れる気持ち悪さがなんとも云えなかった。

 帰国する日の朝になって、雲一つない青空。ピンと張りつめた冬のマンハッタンのいつもの空気だ。気温は5℃、あらま、何てタイミングの悪いこと、朝から夕方までソーホーからアッパー・イーストのギャラリーを観て回っていたので、一日だけでもこんな天気が欲しかった。それで、成田に着いたら激しい雨、どうやら雨を呼び込んでいるらしい。晴れ女はよくいるが、私はとうとう雨男になったのか。

 おまけに傘を忘れていった。ミラノで買ったボルサリーノは防水加工であるから、背広が濡れるのを我慢すれば、軒先から軒先へ、雨の中をなんとなく誤魔化しながら歩いていたが、ザッザーッと大降りになってこりゃ駄目だと思い、ちょうど通りかかったバーニーズ百貨店に飛び込んだ。東京に忘れたのはユニクロで買った折りたたみ傘(550円)で、実はこの時、面倒がらずに10ブロックほどバスか地下鉄で53丁目まで行けば、先月開いたばかりのユニクロ・ニューヨークで、私が東京に忘れたものと同じ折りたたみ傘を8ドル程度で買えたはずだが、雨はますます本降りでバス停に行く気持ちにもなれない。

ユニクロNY それでこれが傘を買いに行くべきだったユニクロNYだが、私は結局、雨が上がる様子もないので代わりにバーニーズNY折りたたみ傘を40ドルで買う填めになった。
 五番街53丁目のユニクロはすごい。何がすごいか、店の広さがすごい、実は前日、雨がそれほど強くない時間に、というか降ったり止んだりの天気で、53丁目は近代美術館の通りだから「ヴィレム・デ・クーニング展」をチラッと観にいったとき、ユニクロを覗いてみたのだ。いや、広いのなんのって、1フロアーあたりテニスコート4面は楽に取れる。と思う。


MOMAクレー ヴィレム・デ・クーニングは、私たちの世代には特に強烈な印象を残したアメリカ戦後美術のスター画家で、私は1968年の「アメリカ現代美術展」(京橋・国立近代美術館)ではじめてオリジナル作品を観た。観てすっかり魅了され、展覧会にも2度行った。後年、欧米の美術館を訪ねるようになってからは、デ・クーニングの作品を観るたびに68年を思い出していた。(因みに右の絵はデ・クーニングではない。近代美術館のクレー「猫と鳥」の部分)

 近代美術館のデ・クーニング展は私には初めての回顧展で、彼が何処からやってきて、私が初めて知った頃は彼が何処にいて、それから何処へ行ったか、殆どといって良いほどブレの無いデ・クーニング氏の創作史に感嘆した。何処からやってきて何処へ行ったか?は、彼が若い頃からどんな画家の影響下で描いてきたかと同意。

Bunacco 3泊5日の小旅行であるから、用事以外に特別なプログラムはなかった。でも出発直前、滞在中のメトロポリタン歌劇場演目を調べてインターネットで切符を買うことは忘れなかった。ヴェルディのデビュー作『ナブッコ』(11月17日、何が何だか分からないだろうが左の写真)。舞台は私は初めて観た。これといって有名なアリアはないが、第三幕で歌われる合唱「行け、我が思い、金色の翼に乗って」は余りにも有名。古今東西、映画音楽としてこれほど頻繁に使われた曲はほかにないのではないか。合唱が始まったとたん、隣席の韓国人旅行者の女性がポロポロと泣き出した。私もつられて涙が出てきて曲のあいだ泣き続けた。

 歌劇『ナブッコ』といえば忘れがたい思い出がある。美空ひばりさんが亡くなる直前、折から来日中のイタリア・オペラ(スカラ座?)をNHKホールに観に行って感激したというのだ。一緒に行った神津善行さんがテレビで喋っていたが、その時ご覧になった演目を『ナブッコ』と言わず、間違えて『ブナッコ』と言った。私はすぐさま歌い出して「♪どじょっこだ〜の、ブナッコだ〜の、は〜るが来たなと思うべな〜♪」とやった。ウケた。

 それには伏線がある。ずいぶん以前のことだ、トランペット奏者・近藤等則がある年の夏、故郷の今治に帰省するから泳ぎに来ないかと誘ってくれ、私は連歌仲間の伊藤瞬星とその友人と3人で、私が運転するオンボロ車で、途中、オープンして間もない直島ミュージアムなどに立ち寄りながら、テレテレと今治にコンちゃんを訪ねた。夜、彼の今治西高同級生等と飲み、中に今治市役所に勤める真面目な方がいらしたのだが、帰りのタクシーでその方が我々を送って下さり、コンちゃんから我々がヨーロッパを足場に仕事をしている国際ビジネスマンだと大仰に聞いていたのであろう、その方が「あの〜、いまわたくしは市役所で国際交流を担当しているのですが、モロッコというのはどんな国なんでしょうか?」とお聞きになった。こちらは相当に酔っていた。お答えする代わりに「♪どじょっこだ〜の、モロッコだ〜の♪」と演ってしまったのだ。二度と口を利いてもらえなかった。

 メトロポリタン歌劇場で、合唱を聴いて涙が止まらなかったなどと言っているが、私の話はおおよそ真面目に取り合えるものではない。

コモ エスタ セニョリータ

Louise

昼酒を飲んだ。

 ジゼル・フロイントが撮影したW.H.オーデンの写真を観て、かつて田村隆一がオーデンの顔に刻まれた皺を賛美して詩に書いているが、上のルイーズ・ブルジョワの写真を観たら、彫刻家の手の皺を賛美して詩を書いたに違いない。生誕100年を記念してバーゼルでブルジョワの展覧会が開かれていることは、先月ブログに載せたばかりだ。ブルジョワのようにインソムニアに陥る私は、彼女が不眠症で眠れなかった夜、せっせとスケッチブックに向かって描いたドローイングを時おり眺めている。

 何年も前、といってかなり前、六本木ヒルズにある彼女の巨大な「蜘蛛」を初めて見たとき私にはあまりピンとこなかった。それからソウルの美術館「リーウム」で彼女の作品1点を観る機会があった。さらにDIAビーコンのブルジョワ展示室を観て、やっと点と点が繋がりはじめ、グッゲンハイム美術館のブルジョワ回顧展に行き会うのだが、これは逆効果でかえってブルジョワを私から遠ざける結果になった。

 何故ブルジョワを遠ざけることになったかと云うと、同展の展示がイヤらしく感じられたからだ。グッゲンハイムは時々それをやる。「ピカソ 鉄の時代」「カルダー展」もそうだった。必要以上に似通った作品が多すぎた。これでもか、これでもかは良いが、恐らく義理で展示しなければならない作品なのだろうと私は見た。つまりファンド・レイジングに関係する、美術館支援者が持っている作品は何が何でも展示しなければならない事情があって、やむなくきっとそうしたのだろうと思った。展示コンセプトを見れば、私は展覧会の背後に隠されたストーリーを詮索したくなる。キュレイターの仕事はまことにむずかしい。

 それでブルジョワだが、リーウムの作品もDIAビーコンの作品群もしばらく心に残った。イヤらしく感じられはしたが、グッゲンハイムの回顧展はむろん面白くもあった。これまで彼女が取り組んできた制作を時系列として観ることができたからだ。そして再びリーウムへ行ったとき、あの夕闇せまるソウルの空に「蜘蛛」が二匹、いや二体というべきか、これはブログにもアップしたが、美術館前庭に立っているのを観て、ブルジョワへのシンパシーが急に沸き上がった。悲しい時空であったからだ。

 そして先月、バーゼルで観たブルジョワ展だ。こうして本気で私はブルジョワにのめり込んできた。のめり込んで来たのは「時間のイメージ」と呼べるような心のメカニズムに捕らわれたからだ。時間のイメージとは、物理的に動く絶対的な時間(いまもこうして過ぎている)とは別に、伸縮自在の、順列無視の「時間」が手を伸ばせば届く所にあることを知ったということ。ふつう、イメージとは視覚的感覚のヴォキャブラリーなのだが、どうもそれだけではないらしい、しばらく前、私はブログに「ピアノ音楽は時間の彫刻である」と書いた。それに関連する。うまく言えないが、時間を時間の概念で捉えずにイメージ(立体的な画像)で捉えることができるのではないか。

 私がブルジョワにのめり込んだ経緯も、六本木ヒルズから始まって先月のバーゼルまで、おそらく10年以上経過した時間のなかで点と点が繋がり、単に記憶というのでなく、時間のイメージが交錯して全体像を形作ってきたのではないか、それが突然やってきた。クレーがたびたび訪れていたシチリア島を訪ねて、クレーがそこで何を観、何を感じていたのかを考えながら、彼の作品に現れたシチリアの直接的な影響(記憶)と古代ギリシャへと飛んで行くクレーの自由で我が侭な時間観念、そこにどうやら私の「時間イメージ」のイメージがあるらしい。

 冒頭に書いた昼酒というのはほかでもない、昨日の昼下がり、

と、ここまで書いてから慌てて家を出て「ウィリアム・フォーサイスと土方巽:身体のイラストレーション」というイベントに行った。日英同時通訳付きというので、友人のディーンを誘っていた。彼と会うのは3年振りだ。ディーンは早稲田、東大、東京外語大で主に哲学を教えている講師で、ロンドン大学院では「暗黒舞踏」を博士論文テーマに選んだのだから(来年辺りには書き上げると言っていた)、土方巽にもフォーサイスにも興味はある。午後2時から5時まで、途中10分間の休憩を挟んだ、冗長で、半分は面白く残り半分は退屈な、プレゼンテーションとシンポジウムの会だった。舞踏だから当然といえば当然だが、時間の概念についての話が出てきた。「カタルシスとは時間を止めること」というどなたかの発言も面白かった。会が終わってディーンと雑談をし、実はさっきブログを書きながら時間の概念について考えていて、「時間イメージ」(Time-Image)という語を思いついたんだけど英語でそう表現するのは間違いじゃない?と聞いたら、もちろんその概念はありますよ、ミスター・シンドウ、と彼が言うので、そうか、間違いじゃないな、よし、もう少し突き詰めて考えることにしようと覚悟を決めた。

 で、昼酒だが、昨日、赤坂・砂場へ行った。公園のお砂場ではない、砂場という老舗の蕎麦屋だ。「蕎麦屋ってえのは、午後2時頃から行って、玉子焼きかなんかでちょびちょび酒を飲む爺さんがいたりするのが一番いい風景なんだよ」と、少年の頃聞かされて以来、いつかそのようなジジイを演じてみようと半世紀思い続けてきたが、還暦を過ぎて、頭の天辺が禿げてきた私にもようやく資格ができたという訳で、昨日、それをやることにした。その前日我が家に来た客人が大事な書類を忘れて帰り、届けましょうかと電話をしたら、あした赤坂の砂場で人に会うので、ご迷惑でなければ砂場に届けておいて戴ければ助かりますとのことで、じゃあいっそのこと久しぶりに砂場で蕎麦でも食べようと出掛けて行ったのである。

 教えのとおり玉子焼きを取り、板わさを取り、浅蜊の煮物を肴に熱燗を飲った。たいがいは蕎麦一杯ひっかけて足早に店を出るお客を眺めながら、こちらはのんびりと昼酒を楽しんだ。天ぷらソバで仕上げてから、ほろっと外へ出ると小春日和の風が頬に心地良い。赤坂通りを乃木坂に向かい、赤坂小学校を左に折れて東京ミッドタウン裏手の公園を抜けると、週末とあって子供連れが芝生で遊び回っていた。ふとミッドタウン向かいのビルを見たら、2階に「ジェントルメンズ・クラブ ライブヌード」の看板があり、ありゃ、まだこんな店があったのだと時代錯誤を可笑しく思い、途端にロス・インディオス&シルヴィアの名曲『コモ・エスタ赤坂』が頭の中で回りはじめた。

 ♪コモ エスタ セニョ〜ル、コモ エスタ セニョリ〜タ
   酔い〜しれ〜ぇてみたいのよ、赤坂の夜♪

これもある種の時間イメージなのである。



麻布の夕暮れ 7

ドイツ祭

シチリア・スイスから戻って、ちょうど週末と日曜日になったので、たっぷりと眠って時差が出ないよう願ったが、そうはいかない。明け方に目覚め、ふたたび眠ったら気が付くと昼を過ぎていた。

 今日、近くの有栖川公園で「日独交流150周年」フェスティバルが開かれていると知り、ビールでも一杯飲もうかと出掛けていった。もの凄い人混み。警備の警察官や私服がやたら多い。それもそのはず、ドイツ連邦大統領と日本の皇太子がメインステージで挨拶をしているところだった。

 そのあとヤング・ユーロ・クラシックなる小編成のオーケストラが演奏するというので、ガラ空きになった座席に素早く腰掛けた。小編成オケといっても、東京芸大学生とエッセン・フォルクヴァング芸大学生の混成、プロフェッショナルではない。だが演奏は良かった。モーツァルトの交響曲(第何番かは分からない)、指揮はゲルト・アルプレヒト。読売日響の主席なども務めて日本には馴染み深い指揮者だが、まさかこの場にアルプレヒトが登場するとは思わなかった。(上の写真で、舞台から去って行く左の人がアルプレヒト)

 10月とはいえ日中25℃にもなった温暖な気候で、有栖川公園の木々にはまだ多くの蝉がいた。ジージーと鳴く蝉の声、ときおり支援物資を運ぶヘリコプターが上空を通過し、あるいはビールスタンドで飲んでいる人々の話し声、何処かで泣き声を上げる赤ん坊、携帯で話しながら後ろを向いて知り合いを捜している最前列のおばさま、気の毒を絵に描いたような劣悪な演奏環境であったが、アルプレヒトは嫌な顔ひとつ見せず(当たり前と言えば当たり前だが)、モーツァルトの音をしっかりと作っていた。音楽とは不思議なものである。

 もちろん感動的な演奏でもなければ、スカスカのモーツァルトだったが、モーツァルトの音楽の側からみれば、演奏者の技量や観客の動向などどうでも良い。だが会場の数人あるいは数十人の聴衆は一心に耳を傾け、第4楽章まで聴き入っていた。それは指揮者にも伝わっていただろう。舞台とはそんなものだ。

 これまでアルプレヒトの演奏はテレビ以外ではあまり聴くことがなかった。1988年から97年までハンブルク州立歌劇場の音楽監督を務めているから、たぶんその間、ハンブルクで聴いている。一度はアグネス・ヴァルツァーで『椿姫』を観た。まったく覚えていないがそれもアルプレヒトだったかも知れない。ヴァルツァーの出来が良くなかった印象がある。高音を出すときの彼女の眉間に寄った皺ばかりを覚えている。

 続いて舞台に登場したのは、ドイツでデビューした日本人4人のユニット「シャナドゥー」。可愛らしい女の子たちで、洗練されてはいないがドイツならこれで通用する。PAの大音響だから、蝉の声もヘリコプターも赤ん坊の泣き声もモノともしない。

ドイツ祭2

シチリア紀行 その3

ブレラ美術館

それで、カルタジオーネのホテルの窓から眺めた早朝のエトナ山が、クレーの作品「パルナッソス山へ」を想起させずにはおけない話題はともかくとして、夕闇迫るアグリジェントの神殿群を見学してのち、翌日、私たちは最後の訪問地タオルミーナに向かった。

 本来なら、タオルミーナのギリシャ(ローマ?)劇場跡から望むエトナ山が、世界中から観光客を集める呼び物の光景なのだが、私たちが訪れたその日、連日の晴天がにわかに崩れて、分厚い雲に覆われたエトナ山はとうとう姿を現さなかった。ここから見えるエトナ山はどうであったか、パルナッソス山との関連がもうひとつはっきりしたかも知れない。

 賑やかなタオルミーナの通りを一人で歩いている年若い女性を見つけ、日本人だと思ったのだろう、お仲間の誰かが「こんにちは」と声を掛けた。そういえばミラノに行くまで日本人観光客はほとんど見かけることがなかった。声を掛けられた美女は「コンニチワ」と覚束ない日本語で応えてきたが、韓国から来たのだという。カムサハムニダ。珍しく一人旅だそうで、留学でもしていたのであろう流暢な英語だった。「あら、新藤さん、相手が美人だからずっと話し続けてるわ」と背後から声が聞こえた。次の角で彼女と我々の行く手は分かれた。さよなら、お元気で。お仲間はまるで2、3日一緒に旅行をしてきたかのようにとても丁寧な別れの挨拶をした。

 和田定男先生はしかし、クレーのシチリア旅行ではシラクーサが一番重要な場所であったと指摘なさっている。たしかにクレーは1924年の休暇旅行の際に、タオルミーナに2週間滞在した後シラクーサとジェッラを訪ねており、28年暮れから29年1月に掛けてのエジプト旅行の帰途シラクーサにも立ち寄り、1931年のシチリア旅行ではシラクーサからラグーザ、アグリジェントを経てパレルモに向かう旅程を組んでいた。

 シラクーサも美しい町であった。残念ながらここのホテルも駄目なところで、うすら汚い市街地の只中にあった。夜、私たちはタクシーで旧市街オルティージャ島まで行き、ふらふらとレストランを探した。鼻をくんくんさせながら町を徘徊すると、大概の場合、私はそれなりに格好のレストランを探し当てるのだが、何と言っても今回の失敗は、ミシュラン・イタリアを早々に買っておきながら旅行に持って出るのを忘れたことだった。

 それでもアルキメデス広場の近隣に、何となくイイカンジの店を見つけ、入ってみるとシラクーサでは出色のミシュラン二つ★★「ドン・カミーロ」であった。普段の行いが良いからだ。翌日は同じくアルキメデス広場に面したレストラン「800」が昼食にセットされていたので(言っておくがこのレストランは最悪、旅行会社が組み入れたが、店のオヤジから袖の下を受けとっているに違いない)、バスの運転手に頼んで朝早くオルティージャ島まで送ってもらい、午後はここでピックアップしてもらうことにした。

 シラクーサの美術館は一部改装中、お目当てのカラヴァッジオ「聖ルチアの埋葬」が一時セント・ルチア教会に避難中と聞いた。行ってみると祭壇にその絵が掛かっていた。教会だから入場料は不要、但し美術館のように間近からは観られない。2ユーロでパンフレットを買った。それから州立美術館(なんとも地味な施設で、収蔵品は素晴らしいが、ショップも無く、受付のおじさん達が居眠りをしている)へ行き、もうひとつのお目当てルネサンスの画家アントネッロ・ダ・メッシーナ描くところの名品「アヌンチアツィオーネ」即ち受胎告知を観にいった。(上の写真ではない、上はミラノ・ブレッラ美術館での隠し撮り、ダ・メッシーナの展示室には恐いオジサンがずっと見張っているので隠し撮りは無理)

 シチリアからミラノへ移動する朝はもの凄い嵐になった。タオルミーナからカターニア空港まで40キロの道を、前の車がぜんぜん見えないほどの土砂降りのなかをバスは飛ばした。出発は朝の4時半。これも凄い。ミラノで半日を取って、それからバスでベルンまで行くのだから朝一番の飛行機に乗るしかなかった。

 そう、ミラノでは、クレーがいたく感激したと日記に書いているマンテーニャの「死せるキリスト」を観に、まずはブレッラ美術館に行った。ここにはラファエッロとカラバッジオの名品も。それから名高いカフェ・ヴェルディで昼食、スカラ座の前を通りすぎて、女性群にはしばしショッピング・タイムを。

ミラノドゥオーモ ミラノに初めて来たのは1973年頃のことだった。ドゥオーモが見えるガレリア入口付近のカフェに座って、煙草をくゆらせながら私は思い出した。あの最初のミラノで、私は目も眩むばかりの革のコートを買ったのだった。当時勤めていた銀座の画廊の給料は4万2千円(それでも新卒初任給よりずっと良かった)コートは85万リラ、給料の約2倍だった。ボロボロになるまで着て誰かに譲ったのだと思う。

Borsalino しばらく時間があるので、私もショッピングに出た。シチリアで余りにも日差しが強かったので、私はシラクーサで恥ずかしくなるような真っ白いストローハット(8ユーロ)を買って被っていたのだが、これからスイスに入って天候は下り坂、そしてなによりも寒い、で、思い立って懐かしい帽子店「ボルサリーノ」を覗いた。私の世代ならアラン・ドロンの映画『ボルサリーノ』は知っている。似合いもしないが黒のフェルト帽(178ユーロ)を買った。それからふらふらドゥオーモの方に戻った。




Milano Saviniと、ふとガレリアの中央角に「サヴィーニ」があった。まだここにあったのか・・・、ミラノでは「クラッコ」「イル・テアートロ」と並んでミシュラン4つ星のレストラン、「サヴィーニ」には甘い思い出がある。1985年の秋だった。汽車の待ち合わせ時間、ここでゆったり食事をしてから彼女とヴェニスに向かったのだった・・・。え、誰?その人?まあいいじゃないか、ちかぢか小説に書く。

 ミラノを出て、豊かな食材地帯ロンバルディアの畑を車窓に眺めながら、やがてコモ湖を見下ろし、国境を越えてルガーノ湖を縫うようにバスが走る。

 ごらん、あれが竜飛岬、北のはずれと〜、見知らぬ人が指をさす

 昭和52年阿久悠作詞、三木たかし作曲、石川さゆりのヒット曲「津軽海峡・冬景色」がとつぜん頭の中で回り出した。と云うのも、むかしミラノから汽車でスイスに向かうとき、ルガーノ湖畔を走る列車の中で、向かい合わせの席に座った老婦人が、湖の遥か向こうに見える雪山を指さして「あれがモンテ・ローザよ」と私に教えてくれたことを思い出したからだ。ミラノの甘い思い出より以前のことだったと思う。

 ♪ごらん、あれがモンテ・ローザ、薔薇の山よと、見知らぬ人が指をさす♪、と、石川さゆりのメロディーに乗せて歌ってみれば、私の心情は良く理解されよう。あらゆる芸術は常に音楽の状態にあこがれる。である。

 ベルンでは、むろんクレー・センターを訪れ、クレーがシチリア旅行に取材した作品数点を、普段は入れない修復室に並べてもらって皆で鑑賞した。私はいい加減な解説をした。その日は日曜日で、キュレイターたちは休みだったが、特別に頼んでファビエンヌ・エッゲルホーファーに出勤してもらったのだった。ファビエンヌはクレー・センターで最も年少の、しかし優秀な研究員だが、わざわざ日曜日に出てきてもらってありがとうと言うと、でも午前中にドクター論文を書き上げたの!と休日出勤を厭わしく思っている様子はなかった。へえ〜、ドクター論文を書き上げたって?凄いじゃん、で、テーマは?バウハウスに於ける教育と成果について。そうか、その話は前にも聞いたことがあったね、それを書いたんだね、ま、ともかくおめでとう、でも君の年齢でドクター論文は例外的に早いね!

 ファビエンヌは知能指数が高すぎることが玉に瑕で、兎も角も才媛であるが美人でもある。『芸術新潮』2005年12月号65ページの写真、クレー作品「海のかたつむり王」の前に立っているのが彼女だ。論文は来年本になる。この先ファビエンヌは何冊もの本を書くだろうが、記念すべき一冊になる。高校時代、同級生のモニカ(だったか?)と日本旅行を夢見て、彼女がクレー財団に就職して間もなくの頃だった、この度クレー財団で働くことになったエッゲルホーファーと申します、実はプライベートで日本に行くのですがもしお目に掛かる機会があれば幸いに存じますと、遠慮がちなメールを送ってきたのはいつのことだったか、高田馬場の焼鳥屋に二人を招いてご馳走したのが彼女との最初だった。

 翌日は所謂「自由行動」の日だったが、お仲間を放っておく気はさらさら無く、みんなでバーゼルに行った。月曜日はバーゼル美術館は閉館日だったが、バイエラー財団が開いていた。見事な「シュルレアリズム展」、さらに見事だったのはルイーズ・ブルジョワ展の併設だった。

Beyler Bourgeois

 数年前、グッゲンハイム美術館でブルジョワの回顧展を観たが、その時は余りピンとこなかった。だが今回、バーゼルで観たブルジョワはかなりピンときた。バイエラー・コレクションの常設展示のあちらこちらにブルジョワの彫刻作品が点在し、え、これもブルジョワ?ほんまかいな?という作品もあった。と云うより、近代美術との意外な繋がりを示唆する実に優れたキュレイターの配置であった。地階にブルジョワの専用展示場、そこには200点を超えるドローイングが並べられていた。「インソムニア」(不眠症)と題された連作で、事実、ブルジョワ自身が不眠症に苛まれた時期(約1年間)に描かれたアールブリュのような、かと思えばソウル・ルウィットのような幾何学的な、また密室的なエロティシズムに満ちた、この芸術家が心の奥底に持ち堪えた言葉(ラングェッジ)があって、私たちは感動した。

 こうして私たちの「クレーのシチリア旅行を訪ねて」旅行会は終わったのだが、得るところが大きかった。まだ整理が付かない。これから徐々に反芻すべきであろう。10月18日、参加者の皆さんをジュネーヴ空港にお送りし、私だけはもう二日ほどスイスに留まった。ジュネーヴの駅前に安宿を取り(2日で200フラン、1泊8,800円)、所用でベルンを往復したが、最後の夜、ジュネーヴ湖畔の高級ホテル「ボー・リヴァージュ」の前を通り過ぎたとき、ふたたび甘い思い出がよみがえった。

シチリア紀行 その2

アグリジェント双子星 

アグリジェント、ジュピター神殿。

 おおてらのまろきはしらのつきかげを
 つちにふみつつものをこそおもへ

 つい八一の歌を思い出してしまうが、夕暮れのアグリジェントは美しい場所であった。私はこの旅行中、パウル・ツェランの評伝を持ち歩き、ときおり読んでは閉じ、開いてはまた続きを読み継いでいた。赤坂のゲーテ・インスティテュートで著者の関口裕昭さんが講演をなさったので、旅行に出る二日前だったか、聴きにいった。私たちの世代にはポール・ツェランだが、関口さんによると彼はパウル・ツェランだ。まだ半分も読み終えていず、その後に上梓なさったツェラン論も読んでいないので、安易にクレーと結びつけるのは止めるが、リルケよりむしろクレーはツェランに近い気がしてならない。

 アグリジェントのホテルは最悪だった。廃屋のような建物、美味しくない食事、設備の悪い部屋。だが翌日の昼食に立ち寄ったレストラン「サヴォーカ」が出色だったので、私たちは前夜の不幸を忘れることができた。アグリジェントからふたたび山道に入り、昼前、ピアッツァ・アルメリーナに着いた。ヴィラ・ロマーナ、かつてのローマ貴族の館だが、数年前から修理中で施設の三分の一ほどしか見学できなかった。ギリシャ遺跡を見てきた私たちの目にはローマ遺跡は突然ロマンチックに見える。当たり前だ、ロマンチックとはローマ的という意味なのだから。

 ところでシチリア島は、紀元前7世紀のギリシャ植民地に始まり、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ・ビザンティン、続いてイスラム帝国、さらにノルマン人、スペイン人の支配下に置かれイタリア王国に併合されるのは19世紀になってからである。まさに地中海文化の十字路なのである。したがってあらゆる文化の地層が島のあちらこちらに埋められている。

 ピアッツァ・アルメリーナ郊外にあるレストラン・サヴォーカの、手入れの良く行き届いた庭が心地良く、私たちはしばらく庭を歩いて真昼のワインを醒ました。典型的な家族経営だ、苦労して店を盛り上げた祖父と祖母、腹の突き出た息子、不釣り合いな美人の嫁、そこいらを走り回る孫たち。庭のポプラ・・・。

 さてその晩の宿舎はカルタジローネだったが、途中、山道を登りつめて突然に視界が開けると、遥か遠くにエトナ山が見えてきた。ホテルの窓からも見えた。そこで私はある種の思い込み、強迫観念に苛まれることになる。

エトナ山カルタジオーネ

 これは翌日の朝早く部屋の窓から撮った写真だが、春は曙やうやう白くなるゆく山際すこし明かりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる(八一の次は清少納言か)、私ははっとした。エトナ山がパルナッソス山に見えたからだ。ご存じAd Parunassum「パルナッソス山へ」はクレー晩年の代表作、ご存じでない方のために画像を附しておく。

パルナッソス

 むろん私の思い込みである。クレーが1934年に描いたこの絵は、1928〜29年のエジプト旅行に由来する。あるいは、少年時代から親しんだトゥーン湖畔のニーゼン山の形姿が色濃く反映する。だがパルナッソスはギリシャに実在する山であり、クレーは一度もギリシャを訪れたことはなく、クレーにとって「ギリシャ」はシチリア島であった。

 忘却と記憶(そういえば高校生の頃に読んで一行たりとも理解できなかった本にモーリス・ブランショ『記憶と忘却』があったが)、クレーの創造活動にはいつもそのメカニズムが付いてまわる。またしても残念ながら、シチリア旅行でクレーがカルタジオーネを訪れた記録はないが、実際の風景は常に彼の内面に取り入れられ、記憶と忘却の間(あわい)にイメージが生まれるメカニズムは変わらない。事実、最初のシチリア旅行で長期滞在したタオルミーナのギリシャ(ローマ)劇場遺跡の背後にはエトナ山が間近に眺められる。その容姿はどのようなものであったか。(私たちもカルタジローネの後タオルミーナの遺跡に行くのだが厚い雲に覆われてエトナ山は見られなかった)

 パウル・ツェランの初期詩集『辛子と記憶』(忘却と記憶に同義)が暗示した詩的空間が、私にはひっかかるのである。(続く)

シチリア紀行 その1

食料品店

ローマ空港でお茶をしていたら、テレビにカダフィ大佐死亡のニュースが入ってきた。秘密裏に埋葬されるということだ。

 10日間の旅を終えて今朝成田に帰着した。ジュネーヴの朝はすこぶる寒かったが、ローマは比較的温暖でセーターを一枚脱いだ。帰宅して気が付いたのだが、ローマ空港で買ったシチリアワインが無い!カダフィのニュースに夢中になって、あのままカフェのテーブルの下に置き忘れたか、ああ、またやってしまった、いや、不図アリタリア航空に電話をしてみたら、機内に忘れ物のワインが3本あってこちらの連絡を待っていたらしい。やれやれ。

 10月9日、ローマ空港で乗り継ぐはずのパレルモ行きの便が、シチリアを襲った季節外れの嵐のために数時間待たされ、飛ぶには飛んだが、結局、天候が回復しないということで機はカターニャ空港に着陸、そこで更に数時間待ってパレルモに着いたのは夜中の2時になっていた。9時到着の予定で待っていたバスも、結局、その時間まで待機してくれた。仕方ない、翌日は午前中の予定をスキップして午後から動くことにした。

マルサーラ塩田 パレルモのことは現地でブログアップしたので割愛するが、参加者のAさんが「ラグーザ玉は、ここに随分長いあいだ住んでいたようですね」とおっしゃるので調べてみると、たしかに、ラグーザ玉は1882年に夫君(明治政府に招聘された彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザ)と共にパレルモに来て、夫の死後、1933年までパレルモに暮らした。ということは、1914年クレーがチュニジア旅行の帰途、初めてパレルモの地に立ち寄った際、お玉さんはパレルモ大学美術工芸科の先生をしていたことになる。行き会ってはいまい。

 私たちは翌日、パレルモを発って島の西岸部を南下、港町トラーパニを歩いた。バスのドライバーが良く出来た人物で(前夜も午前2時まで空港で待機してくれたが、嫌な顔ひとつ見せなかった)こんな所を見たいだろうと、港の先端にある漁船停泊地まで連れていってくれた。数年前、マルタ島に夏の一ヶ月を過ごしたことがあったが、何度か食事に行ったカフェに印象深い人物写真が数点掛けてあった。店の人に聞くと被写体はシチリア島の漁師たちだと云っていた。それを思い出した。トラーバニの漁船に同じような顔があった。

セジェスタ神殿 それからマルサーラまで海岸沿いを走り、途中、現代美術かと見紛う塩田の塩の山を幾つも見た。海辺のレストラン「ユーベス」での昼食も美味しかった。シチリア料理はおしなべて塩味が強く、そのためワインやビールが欠かせないのだが、多くのハーヴを使う。パレルモの市場にもハーヴ屋さんが並んでいた。思わずシチリア名物チェリートマトのドライトマトを買ってしまった。200グラム280円。

 マルサーラから一度山道を引き返してセジェスタのギリシャ神殿を観に行った。そうかこれか、和田定男先生はご著書『パウル・クレーとその旅』で、クレーの縞模様はシラクーサの石切場の縞模様から取られていると主張なさっているが、実際、後日訪れたシラクーサで見てみると私にはあまりそんな気がしなかった。それよりセジェスタの神殿の柱に見られる石の層が、クレーの絵にある縞模様に見える。但し、2度にわたるクレーのシチリア旅行で、彼がセジェスタに行った記録はない。

 夕刻間近、アグリジェントに着いた。
アグリジェントコンコルディア

 ここに4つの神殿が並んでいる。ジュノー神殿、ヘラクルス神殿(写真)、ジュピター神殿、ディオスクロイ(双子星)神殿の4つだが、1931年クレー夫妻がここを訪ねた時、ディオスクロイ神殿の前に佇むクレーをリリーが撮影した写真が残っている。私は是非とも同じアングルでディオスクロイ神殿を撮影したかったのだが「神殿の谷」の一番下にあるディオスクロイに辿り着いたときはすでに日も暮れて写真は撮れなかった。次の機会に譲ろう。

 夕暮れの最後の光の、ヘラクルス神殿に映えるサトゥルヌスの朱は、いやらしいほどにわざとらしい写真の色だが、クレーの色彩を彷彿とさせた。(続く)

ヴォルテール

ヴォルテール

楽しい旅行だった。

 パレルモから島の西海岸を南下、セジェスタのギリシャ神殿に立ち寄り、トラーパニ、マルサーラを経てアグリジェントへ。翌日はピアッツァ・アルメリーナのローマ邸宅跡を見学した後カルタジローネ泊。ラグーサ、ノート、シラクーサ、タオルミーナ、そしてミラノに飛び、半日ミラノをぶらぶらしてからバスでベルンへ。クレー・センターでたっぷり作品を観た。最後の1日はみんなでバーゼルへ、そして旅行会のメンバーは昨日ジュネーヴから帰国。9日間の旅であった。私は所用でもう2日だけスイスに留まった。

 昨日の朝、ジュネーヴ空港にみなさんをお送りしてから、さてベルンへ引き返そうかと思ったが、私も帰りはジュネーヴからなので駅前に安宿を取りここに泊まることにした。

 ジュネーヴでヴォルテール記念館を訪ねた。記念館といっても立派な資料がたくさん揃っているわけではない、入館は無料、私以外に訪問客はだれもいなかった。しばし賢人の像の前に立ち止まってじっとしていたが、今にも彼の目がぎょろりとこちらを見るような気がして怖くなった。シチリア旅行の詳細は帰国してから書く。

calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< January 2012 >>
sponsored links
selected entries
archives
recent comment
recent trackback
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM