台峯日乗 99

 

コペンハーゲンに留学している娘から校舎内部の写真が送られてきた。

 

殺人的猛暑に見舞われた今夏、極力ひっそりと家にこもって資料を読んでいた。資料というのは世紀転換期ウィーンについての書籍類で、来月「たばこと塩の博物館」で講演をするのでその準備である。埃を被ったウィーン関連の本を引っ張り出して久しぶりに読んでいる。

 

たばこと塩の博物館で『ウィーン万国博覧会』という展覧会が開かれる(11月3日〜19年1月14日)ことになり、記念イベントでクリムトの話をして欲しいとの依頼だったが、聞けばウィーン万国博覧会は1873年に明治政府が初めて公式に参加した万博で、展覧会の内容は開催の経緯、博覧会の概要、日本から展示された物品の一部などで構成されクリムトのクの字もない。金ピカのクリムト作品『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』について話ができないか?とのリクエストは、名誉なことだが、展示内容とは無関係なテーマであり(クリムトのジャポニズムに通底する間接的な要素はあるにしても)、数年前ヒットした映画『Woman in Gold(邦題・黄金のアデーレ 名画の帰還』)』を講演の話題にするのは、地味な展覧会の講演に派手なクリムトで人を呼ぼうとするサギではないかと私は躊躇した。

 

そこで一計を案じ、シーレ、クリムトの素描を所蔵する友人Kに、クリムトの素描をたばこと塩に貸し出して戴けないかと願い出、所蔵家は快く応じてくれたので『ウィーン万国博覧会展』にグスタフ・クリムトの優れた素描2点が特別公開されることになった。これで私のサギが免れる。

 

講演プランをあれこれ考えているとき、例の新小岩セミナーで『ウィトゲンシュタインのウィーン』は知っているか?と問われ、もちろん知っている、何処かに本書がある筈だがもう何十年も見ていないと答えた。そうだった、1979年『エゴン・シーレ展』、1981年『クリムト展』、1985年『シーレとその時代展』をプロデュースした頃、私は頻繁にウィーンに通い何冊もの資料にも当たっていた。そのとき(邦訳は後年だったか)買った一冊が『ウィトゲンシュタインのウィーン』だった。本は書架のどこにも見当たらず、Amazonで古書を買った。そして読んでみると、これが実に難解な本であったことが分かった。当時私は本書をほんとうに読んだのか、買ってそのまま放置したのか、更にヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』も間違いなく手元にあった一冊だったが、これも見当たらず(理解できないなりに読んだことは確かだ)、あまりにも懐かしい空気に触れる一方で、さて、もう一度最初からウィーンを読み返してみなければの事態に到った。未だに読解が続いているが、しばしハイデガーを休んで、ウィーン読書に専念している。

 

"Wittgenstein's Vienna"(1973, Simon & Schuster)(ウィトゲンシュタインのウィーン)の著者S.トゥールミンは英国生まれの科学哲学研究者でケンブリッジで直接ヴィトゲンシュタインの講義をうけたことのある人物だから思い入れが強い(後にアメリカに渡りスタンフォードで教えた。2009年没)。共著者A.ジャニクはアメリカ生まれの同業者でトゥールミンとは逆に、後にヨーロッパに渡りウィーン大学を皮切りにさまざまな研究機関で教鞭を執ってきた。彼らの調査は徹底していて科学哲学史を軸に、思想史としての世紀末ウィーンを丹念に分析する。本書の目的はヴィトゲンシュタイン(私はどうしても英語読みのウィトゲンシュタインに馴染めない)『論考』の読解(新解釈)だが、この部分は私にはどうやっても理解できない。しかし辛うじて名前だけは聞き覚えのある、本書に登場する数十人のキャラクターの話題は面白くて仕方がない。二回通読したがもう一度は読んでみる積もりである。

 

もちろんクリムトも登場する。講演プランは『ウィトゲンシュタインのウィーン』をアンチョコにして作っている。娘からコペンハーゲン・ビジネス・スクールのキャンパス写真が送られてきて、なんとまあ美しいモダニズム建築だろうと思ったのだが、著書『装飾と犯罪』で知られるウィーンの建築家アドルフ・ロース(1870-1933)を想起せずにはいられなかった。

 

 1910年に建てられた個人住宅シュタイナー邸は、当時のウィーン人には未だ建設中の躯体工事の途中にしか見えなかったに違いない。同時代のオットー・ヴァグナーと並んで、アドフル・ロースこそモダニズム建築の嚆矢(のひとり)であり、バウハウス前史(バウハウスは1919年開校)として再評価されねばならない(私が知らないだけで、アドルフ・ロースをバウハウス建築の出発点にした書籍は既にたくさん出ているのかも知れない)。トゥールミンたちの著書でも、ロースの思想は或る重要なキー・コンセプトになっている。ここ10年あまりバウハウスと関わってきた私にとっても、ロースは再考しなければならないテーマであることを講演依頼が思い出させてくれた。

 

 という訳で、猛暑の夏は難解な書物に向き合う幸せな時間であった。これから半年、暗くて寒い冬の空に覆われる北欧だが、キャンパスの裏庭にはまだ緑々とした芝が見える。

 

 

 


台峯日乗 98

 

 ジョン・マッケイン氏が亡くなった。マッケイン氏には何ら興味はないが、バラク・オバマとマッケインが大統領選を戦ったとき、私は数日ヒューストンに居たことがある、街をブラブラして選挙ショップを覗いたら、大統領選も大詰めの頃だった、キャンペーンTシャツがバーゲンになっていたので敗色濃厚と云われたマッケイン応援Tシャツを買った。ピンク色の実にオシャレなTシャツだった、あれから何年になるのだろう、大事にしていたがいつの間にかTシャツが手元になくなっていた、残念。どうでも好い話題だが・・・。

 

 友人の瀬川裕美子が出演するので、一昨日に引き続いて両国へ行った、ドビュッシー没後100年記念ピアノ・コンサート(フランス現代音楽協会)の会場が両国の門天ホールという場所だった。両国付いている。写真は、もう何年も電車からしか見たことのない隅田川を、コンサートの帰り、歩いて両国橋を渡ったので橋上から眺めたものである。鮎川信夫に『橋上の人』という詩があった。

 

 詩といえば、この炎天下ベランダに蟻が大勢出て、干涸らびたヤモリの子どもや小昆虫の遺骸をせっせと運んでいる、先日も蛾が死んでいたのを何匹もの力で運んでいた。「蟻が蝶を運んでいる ああヨットのようだ」松村英子だったと思う、小学校か中学校の教科書に載っていた。

 

 今年2月、恒例 Segaway Project(瀬川裕美子ピアノ・リサイタル、彼女はここ2、3年パウル・クレーをテーマにプログラムを組んでいる、それで私も知己を得たが)のアンコールで、事もあろうに瀬川がヘルダーリンの『暁の歌』を唄った(弾き語り)、へっ!ピアニストが演奏会のアンコールで歌を唄うか??!!とびっくりしたが、よくよく考えれば正しい。ハイデガーも『芸術作品の根源』のなかに、詩の、詩的言語の、ことばの、哲学を乗り越える(?)地平に、ヘルダーリンの「漂泊」の一節を引用している。

 

 一見脈絡のないことをゴチャゴチャと書いているが、ウィーン世紀転換期の資料で言語批判、言語論、言語哲学の一端に触れていると私の頭の中は点、点、点であって、これらを線で結ぶための試行錯誤であるから許されたい。今日のコンサートで初演された伊藤美由紀さん(作曲家)の2台のピアノの為の『二重星』は、光学望遠鏡で覗くと重なって見える二つ星が実は相当に離れた星どおしで、二つの音(オン)の共鳴と不共鳴を狙った曲だと仰っていらしたが、ことばにも似たような状態が生じる、外国語を日本語に翻訳すると尚更である。二重星というタイトルを目にして、昨年であったか、レクチャーと演奏(名前を失念したがイタリアの人の好いおじさんであった)を二日掛かりで聴いた「シュトックハウゼンの星座(コンステレーション)」を思い出した。伊藤美由紀さんには失礼だが基軸が違うのである、ベートーヴェンを背負ったシュトックハウゼンの情熱的な時空にあらためて敬意を表したい、と思った。

 

 「存在了解」がいろいろな方角からやって来る。ベルイマンの項で書いた映画的言語とは、映画による言語、視覚と聴覚を同時に刺激するランゲージのことで、言語批判を含むが存在了解とは関係ない。映画は娯楽であり思想でもあるが、音楽のように純粋言語ではない。今日、ドビュッシーとドビュッシーへのオマージュとして捧げられた日本の現代音楽を聴きながら確認した。クロード・ドビュッシー没後100年、近代が完全に終止符を打った1918年にドビュッシーが亡くなったのも示唆的であった。


台峯日乗 97

今宵『魔笛』を観た。

 

 両国のシアターΧ(カイ)が毎年夏に上演してる入場料1,000円の「あえて、小さなオペラ『魔笛』」である。こんな公演があるのは知らなかった、三日ほど前のことだったか、たまたまFBに誰かがシェアした記事を目にして、即、劇場に電話してチケットを予約した。何とも云えない舞台だったが感激した。♫パッ、パッパッパパ〜で始まるパパゲーノ・パパゲーナのデュエットを聴いていたら涙が出てきた、しばらく私に彼女がいないせいだろう、笑。

 

 私は戦後民主主義が嫌いで、従って大江健三郎も嫌いだが、階級社会が好きなので(ホセ・ガルシア・イ・ガセットの影響で)シアターΧの公演の意義には賛同を保留する。フルート1、ファゴット1、ピアノの小編成アンサンブルは悪くなかった、編曲者天沼裕子さん、演出の西村洋一さんも優れている。夜の女王=パパゲーナ、パパゲーノ=ザラストロがダブルキャスト(つまり同じ人が歌っている)、今宵の夜の女王は最高音が出なかったので少し残念、残念ではないがずっこけた、パパゲーノ・パパゲーナの子どもたちが7人登場する、従って観客はその子たちの親御さん親戚、近隣の方々、出演者の関係者で占められ、私のような鎌倉から来たフリー客は殆どいなかったかと思う。

 

 前置きが長くなった、云いたいのはそんなことではない。(口直しと云っては失礼だが、帰りの電車の中からiPhoneに入っているマタイ受難を聴きながら、帰宅して曲を繰り返して聴きながらこのブログを書いている)云いたいのは両国の『魔笛』ではなく、前回の新小岩セミナーで学んだ存在論のことである。『魔笛』は近年ではグルベローヴァの夜の女王に敵うものはなく、今宵の渡邉恵津子さんだって頑張っていたのだから比べる方がおかしい(論理的ではないが)。そうではなく、私が云いたいのは「存在論」である。

 

 存在論には、存在を示す二通りの云い方がある。「〜である」と「〜がある」だが、前者は「AはBである」つまりAの内容・状態はBである、即ち「BはAである」と即座に言い直すことができる。だが後者は何かがそこに「在る」という意味で、S+V+Oの目的語(O)を持たない。何かが無いのではなく、何かがそこに在るという「驚き」は、ギリシャ哲学であり、ハイデガーが発明した概念ではない(アリストテレスだったかプラトンだったか?)。今宵『魔笛』を観て(聴いて)、グルベローヴァと渡邉恵津子さんを比べるのは明らかに前者であるが、その問いには意味がない、「〜がある」のはクレイジーな音楽家モーツァルトの「『魔笛』が在る」の文脈である。存在は、存在である限りにおいて、何かしら光り輝いて起ち上がってくる(vorstellung)存在である。それを存在了解と呼ぶ、それが新小岩セミナーで学んだことであった。

 

 ウィーン世紀転換期の誰かが(カール・クラウスだったかエルンスト・マッハかアドルフ・ロースか忘れたが)言語批判に於いてはメタフィジックス(形而上学)は邪魔だと排除したが、賛成!

 

 今宵『魔笛』を観たかった本当の理由はほかにある。前々回のブログに書いたがベルイマンである。ベルイマンの作品のなかで一番好きなのは『ファニーとアレクサンデル』ではなく『魔笛』だと書いた。ベルイマンの心の内に存在論があったかどうかは不明だが・・・。


台峯日乗96

 

新小岩セミナー

去年の暮れあたりだったか、新小岩でセミナーをするようになった。私が生徒で講師は高校で一年先輩だったW。Wは某有名国立大学で論理学(数理哲学)を講じていた人で数年前に退官した。きっかけは、今年4月のミュンヘン・スピーチのテキストに論理的に不都合があるかどうかを見てもらうことだった。高校時代から可愛がってもらっているので快く引き受けてくれた。

 

ミュンヘン・スピーチが終わってから、何となくこのままセミナーを続けることになった。目下のテーマは、私が依頼を受けた「クリムトのウィーン」という講演(11月11日、たばこと塩の博物館)について構成と論理の相談である。「それだったら『ウィトゲンシュタインのウィーン』を読んだらどうか」と云われ、そうだった、むかしその本は読んだことがあると思い出して、書架を探したが見つからずAmazonで買って読みなおした。むかし読んだことがあると云っても1980年頃のことだから内容はとっくに忘れていた。読みなおしてみたら実に難解な本であった。

 

ウィーン世紀転換期は文化の百花繚乱である。人物名を拾ってみてもグスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ(以上画家)、オットー・ヴァグナー、アドルフ・ロース(建築)、ヨハネス・ブラームス、アーノルト・シェーンベルク、グスタフ・マーラー、アントン・ブルックナー、ブルーノ・ワルター、パブロ・カザルス(音楽)、ヘルマン・バール、シュテファン・ツヴァク、フーゴー・フォン・ホフマンスタール、アルトゥール・シュニッツラー(文学)、カール・クラウス(ジャーナリズム、言語批判)、ジークムント・フロイト(精神病理学)、エルンスト・マッハ、ハインリヒ・ヘルツ、ルートヴィヒ・ボルツマン(物理学)であり、彼らの多くが毎日にように「カフェ・グリーンシュタイドル」に集まっては、ああでもないこうでもないと話し合っていた。彼らに共通の哲学(時代認識)があったからである。戦後日本の、理系とか文系とかいう誠に馬鹿馬鹿しい区分などなかった。原子物理学の嚆矢となったボルツマンはブルックナーにピアノを習っていたし、マーラーは度々精神神経的悩みを抱えてフロイトを訪ねていた。

 

「クリムトのウィーン」はまだ時間があるので、これから周到な準備をする積もりだが、今日のセミナーの話題はウィーンではなくハイデガーだった。ミュンヘン・スピーチでも引用したが、ハイデガーの云う「存在了解」とは何か、「世界内存在」とは何かについてWの話を聞いた。なるほどそうかと納得した。20世紀最高の哲学者のひとりハイデガーの、その思想の基軸となる語彙をこれほど簡明に説明できる人は滅多にいないだろうと思った。持つべきは友、持つべきは佳き先輩である。高校時代、私は浮いていたので先輩のWとしか遊ばなかった、それから50年、頻繁にではないが、時折りWと会いながら話しあってきた。

 

上の写真は先週木曜日から昨日まで3泊4日のキャンプをした野尻湖の夕景。


台峯日乗 95

2015年12月から今まで記事を書かずにいた。書かずにいたのではなく書けずにいた(雑文を書くのは好きだが2006年以来325本の投稿をしてすっかり書く意欲が失せていた)のだが、久しぶりに記事を書く気になった。

 

長生きはするものだ、先週水曜日、金曜日そして今日(月曜日)の三日間、恵比寿ガーデンシネマに通った。イングマール・ベルイマン生誕100年記念映画祭。ボーッとして新宿湘南ラインで帰ってきたが気が付くと大船だった。まだ興奮している。

 

結局「野いちご」「処女の泉」「鏡の中にある如く」「叫びとささやき」「秋のソナタ」「ファニーとアレクサンデル」の6本を観た。ぜんぶ観たかったがとても体力が続かないだろうと思って諦めた。いちばん好きな作品は「魔笛」だが、残念ながら今回のプログラムには載らなかった。まあ、そんなに観たければ、TSUTAYAでDVDでも借りればよい。

 

ベルイマン体験で最も印象に残っていたのは「ファニーとアレクサンデル」だが、70年代末だと思っていたのが、映画は1982年制作で、ジジイの記憶はそんなものだろう、封切りで岩波ホールに観に行った。311分の長尺物で、もちろん当時も途中休憩時間があった。今日それを観たのが、休憩が15分しかなく、隣のビルへ駆け足でタバコを吸いに行って来るのが精一杯だった。これもジジイの記憶だから思い込みであろうが、岩波ホールで観た中で強烈な印象を受けたカットが、今日観たデジタル・リマスター版では削除されていた気がする。最後の場面で、死んだ男が、飛び出す絵本のような具合に床からウワッと起ち上がるカットなのだが、思い込み・思い入れ・思い過ごしだろうか?あの場面がショックで、あのときぼくはベルイマンを強く意識したのだったが・・・。それ以前に「ペルソナ」と「沈黙」は観ていたが難解でよく分からなかった。

 

北鎌倉から恵比寿に通って、映画を観ながらいろいろなことを考えた。と同時に、例によって泣いた、ぼくは泣き虫だから映画を観るといくらでも泣くが、泣けるような場面だから泣いたのではない。ベルイマンの、映画的言語に対峙する姿勢に泣いたのである。分かり難い云い方かも知れない、もっと分かり難く云えば、映画は本来、物語(ストーリー)は二義的な要素であって、映画的言語に向き合うことが一義的であるからだ。ベルイマンはそれを実現した数少ない映画人のひとりだ。初期の「野いちご」「処女の泉」はキルケゴール(を通奏低音とする作品)だが、「鏡の中にある如く」ではキルケゴールに加えて、更に「叫びとささやき」ではもっと明確に、言語批判(ヴィトゲンシュタイン)へと歩みをすすめる。「秋のソナタ」では直裁的に言語(ことば)そのものへと接近する。映画は、映画的言語である限りにおいて、映画的言語がその内面で「映画」を考えるメディアである。(もっと解り易い日本語が思いつかない)近年、物語(ストーリー)で泣かせる映画ばかりであるのは嘆かわしいことだ。

 

35年前、岩波ホールで観た「ファニーとアレクサンデル」がベルイマンを強く意識したときだったと上述したが、別の云い方をすれば、ぼくが「映画とは何か」を考えるきっかけでもあった。(余談だが「叫びとささやき」にカラヴァッジオの絵に模したカットが一瞬出てくる、あれはあのカットを使いたくて作った映画ではないのか?と勘ぐりたくもなり、厳しい云い方をすれば絵画的言語へ逃げている。もっとも、その後の映画(ベルイマンではなく)に名画カットが多く使われるようになった嚆矢として評価できないこともない)「ファニーとアレクサンデル」は哲学的テーマを離れベルイマンの映画的言語の集大成であるが、彼の全映画作品を通じて云えることは、スウェーデンを一歩も出なかったことであり、だからこそ偉大な映画人と云える。アンジェイ・ワイダにとってのポーランドと同様に。「ファニーとアレクサンデル」は劇場を支配する富裕な役者一家の物語だが、劇中に何度か云われる「この小さな世界で」という台詞はそれを意味するのであり、シェイクスピアなど古典劇は止めてストリンドベリの新作を取りあげようと話し合われる最後の場面はそれを如実に物語っている。

 

先々週の金曜日、下の娘がコペンハーゲンに発った。学校が始まるのは9月だから夏の間はヨーロッパを旅して回ると云って出掛けた。どうやら着いたその脚で、寄宿舎にも行かず、そのままスウェーデンの友だちのところに行ったらしい。イングマール・ベルイマンというスウェーデンの映画監督がいて、毎日のようにその人の映画を集中的に観ているんだよと伝えると「パパ、その人スウェーデンのお金(紙幣)になってる人だよ!」と返事が来た。


台峯日乗 94

ぽじたーの

先週月曜日から一週間、南イタリアに遊ぶ。

 写真はポジターノを見下ろす丘の上からの眺めである。ナポリ3泊、アマルフィ1泊、ローマ2泊の短い旅であったが、クレー協会恒例の「クレーの旅を訪ねる」シリーズの最後である。10年以上をかけて、チュニジア、ローマ、ミュンヒェン、シチリア、エジプトを訪ね歩きナポリだけが残っていた。1901年秋から翌年春までクレーはイタリア旅行をしているが、旅行と云うよりローマ留学と呼ぶほうがふさわしい。

 1902年3月、22才のクレーは学友と共にローマからナポリに赴き2週間ほど滞在した。近隣を歩きまわり、日記にはソレントからアマルフィまで7時間をかけて歩いたと書かれているが、私たちもその跡を追って、ナポリからソレントへ立ち寄りその夜はアマルフィに宿泊した。むろんバスで移動したから1時間半の行程である。地中海でもっとも美しいといわれる海岸線を眼下に眺めながら、途上、ポジターノの街を観た。

ヴェスヴィーオ ナポリに着いた翌日はポンペイ遺跡を訪れたが、春を売る女性たちの店舗跡の壁には交合図が残っていて、先々週、永青文庫で観た春画展の続きを観るような心持ちがした。遺跡から発掘された壁画の多くはナポリ考古学博物館に展示されている。クレーは何度も博物館へ足を運び、このような画像を熱心に観たであろう。私たちの宿はナポリ湾の西にあるサンタ・ルチアの港にあった。♪サンタ〜ルチ〜〜アのサンタ・ルチアだ。

 サンタ・ルチアから湾の対岸にヴェスヴィーオが霞んで見える。鉱物学者でもあったゲーテは、イタリア紀行の記事によれば、火口付近まで登ってつぶさに火山を観察しているが、かつてこの山は富士山ほどの高さがあり噴火で現在の形姿となったらしい。ゲーテが登っていったのも現在の形をしたヴェスヴィーオだ。

考古学博物館 考古学博物館に展示されているのは、もちろん春画ばかりではない、右のようなギリシャの神々をモチーフにした興味深い画像は近代絵画の立体性を存分に含んでいる。装飾画は実にお洒落で、同行のメンバーの誰かが、人間の文化ってぜんぜん昔のままなんですね〜〜!と仰っていらしたが、ほんとうにその通りだと思えるモダニズムなのである。クレーは旅行のあと、ポンペイ壁画を引用した小さな水彩画を数点描いている。

 クレーが旅した跡を追って、最後に残っていた目的地が南イタリアであったのだが、私には別の思い入れがあった。

 ナポリの二日目、当初の予定では街を散策して考古学博物館へ行くことになっていたのだが、朝起きると余りにも好い天気で、午前中、宿舎近くの波止場から高速フェリーに乗ってカプリ島へ行くことにした。同行のメンバーは女性8名、またしても女子会にオッサンがひとり紛れる体であったのだが、そんなことは兎も角、クレーはナポリ滞在中、カプリ島へ行った見知らぬ人に、カプリに行かないのは愚かだ、などと云われていささか憤慨しているのだが、私たちはこの機会に島を訪ねてみたのである。

 カプリにある名高い碧い洞窟は、シーズンオフのためか見物用の小舟は運航していなかったが、代わりに山へ行こうということになり、アナカプリなる高地の村までタクシーで行き、そこからスキーリフトで(スキー場がある訳ではない)峯の天辺まで登り、高所恐怖症の私にはいささか辛かったが、遥か眼下に広がる海は絶景で、エメラルドグリーンの水が穏やかであった。

カプリ島

 カプリは、1950年代、パブロ・ネルーダが政治的な事由で自国チリを逃れて滞在した島であった。ネルーダは日本ではあまり知られていない、皆無かも知れない。カプリに逃れたネルーダをモデルに映画『イル・ポスティーノ』が撮られている。スペイン語圏では無論のこと、アメリカでも良く知られた愛の詩人だ。映画公開は1994年で、たまたまニューヨークにいた私は、書店の店先で売っていたネルーダの詩を朗読したCDを見つけ、スティングやマドンナやポピュラー歌手たちが朗読してるのだが、なにゆえ私が『イル・ポスティーノ』を良く知っているかといえば、私もネルーダの詩など知らなかったのだが、この映画の音楽を作曲したルイス・バガロフとは、マジョルカ島の友人ロベルト・オテロの紹介でその数年前にマドリッドで会い、あるとき、ロベルトとバガロフと私の3人でニューヨークに滞在し、バガロフは毎日ジュリアード音楽院の図書室に通い、古典楽譜を漁っていたが、夜になると3人で食事を共にしながらあれやこれやと音楽の話をしていたからである。

 オランダの画家M.C. エッシャーに「メタモルフォーゼ供廚箸い作品がある。作品のモティーフはアマルフィ海岸で、1976年日本で最初のエッシャー展をプロデュースした私にとって(自慢話で嫌らしいが、自慢であろう)アマルフィは必ず訪れてみたかった場所であった。いま、ソレントからポジターノ(これもエッシャーに同名の作品があるが)、アマルフィに至る海岸を眺めてみて、エッシャーの絵画(版画)の現場を観ることで何かしら私の疑問が氷解するような気がしているのだが、それが何なのかはまだ解らずにいる。

 日本を発つ数日前、所用で関西に出向いたとき、大津市膳所に義仲寺を訪ね、念願の芭蕉の墓参りを済ませた。『義仲寺昭和再建史話』という本を著者の谷崎昭男先生が贈ってくださり、この機を逃すわけにはいかないと思ったからだ。

 しつこいようだが、何度もこのブログに書いてきた、

 さまざまなこと思ひだす桜哉

私にとって南イタリアの旅は上の芭蕉の句だったのである。

 

 




 

台峯日乗 93

Helmut Schmidt

ヘルムート・シュミットが死んだ、20世紀が終わったということだ。

 いまヘルムート・シュミットと云っても覚えている人は数少ないかも知れない、私は新聞を購読しないし滅多にテレビニュースも観ないから、日本で報道されているかどうか分からないが、無論、ヨーロッパのメディアはその死を大きく取りあげた。

 以前、シュミットのことはブログにも書いた、90才の誕生日を迎えた時の報道についてだったか、いや、もっと最近のことだったかも知れない、ヨーロッパからの帰りの飛行機で読んだ記事が面白くて(シュミットのことだが)その写真を掲載してブログ記事を書いた覚えがある。昨日、96才で亡くなった。100才まで生きると思っていたが、さして変わりはない、20世紀ヨーロッパのアイコンのひとつであった。1974年から82年まで西ドイツの首相を務めた。

 ハンブルグの貧しい労働者階級の家に生まれ、第一次世界大戦終結ひと月後、つまり1918年だが、少年期にヒットラーが政権に就くとヒットラー・ユーゲントに参加、第二次大戦末期イギリスに捕虜として捕まっていたとき、仲間の影響で社会民主主義に目覚めたらしい。現在のヨーロッパ通貨ユーロ(の元)を作ったのはシュミットであったし、戦後ドイツ経済復興の立役者であった。だが、そんなことはどうでも良い。昨日メルケル首相は記者会見で「彼は政治研究所そのものだった」とコメントした。

 私にとってシュミットの思い出はふたつある。シュミットに会ったことはない。ひとつは彼の喫煙とピアノ、そうだ思い出した、以前ブログに書いたのはそのことだった、好きなシガレットが製造中止になることを知った彼が何箱も(カートンではなくて大きな段ボール箱)買い占めたという記事を読んだからだ。記事を読みながら、モーツァルトの3台のピアノのためのコンチェルトを思い出していた。クリストフ・エッシェンバッハだったと思うが、かつてシュミットが3台目のピアノを弾いた。我が家の何処かにそのライブ録音CDがあるはずだ。ひゃ〜、西ドイツの首相はモーツァルトのコンチェルトを弾くんだ〜!と思ったものだ。

 もうひとつは、1970年代に私が長期滞在した北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに、その後、先師種村季弘が滞在して、村の何かのイベントの開会式の折り、ヘルムート・シュミット(首相だったが)がやって来て、挨拶をしたことがあった。第二次大戦時の兵士のときヴォルプスヴェーデ駐屯部隊にいたので、という経緯だったらしいが、シュミットが俺のすぐ近くに立っていたよと、いささか興奮気味の葉書がタネさんから届いたのを覚えている。



 

台峯日乗 92

西湖スタバ

杭州の思い出が頭に残る。

 これは西湖近隣にあるスタバ、ひゃー何だこれ!と思ったが、中味は普通のスターバックスコーヒー店であった。

册1下舗歌席
紅藕花中泊妓船
處處廻頭盡堪戀
就中難別是湖邊 白居易「西湖留別」(一行目第五字は原文では金へんだが、流石にMacBookにも入っていない)

緑の藤の木陰に歌舞の席を敷き広げ、赤い蓮のなかに妓女の船が止まる。あちこち見渡せば、なにもかも慕わしく、とりわけ別れ難いのは湖のあたり。(川合康三訳)

 本当にそうだった、日暮れて私たちは西湖に別れを告げ杭州の繁華街に行ったのだが、暗さに包まれた湖畔を歩く人々、ロマンティシズムに満ちあふれた空気、匂い、空間、雰囲気、時間・・・、これほど浪漫主義的な場所が他所にあるだろうか、絶対また行くぞー!

 中国美術学院からメールが届いた、バウハウス大学(ヴァイマール)に留学していた学生からの質問状で、私のスピーチの趣旨を確認したいと云ってきた。私に与えられたテーマ「Perception, Imagination and Design Education」のスピーチの概要はおおかた以下のようなものであった。

 私に与えられたスピーチの限られた時間の中で、ひとつの例を挙げてみたい、それは昨年ドイツのバウハウス研修旅行に連れて行ったデザイン学校の学生の一人が作ったプロダクト・モデル(授業で作ったヘア・ドライアー)なのだが、シンプルで優れたデザインだったので、あるとき学生本人に聞いてみると、それはベルリンで見学したバウハウス研究所の屋根のカタチを参照したのだと学生が答えた。(ここで学生のプロダクト・モデルとバウハウス研究所の写真を見せた)

 しかしながら、私のスピーチの目的は、学生のこの優れたデザインを強調することではない、私は過去40年間フリーランスとして多くの美術展、とりわけパウル・クレーの展覧会に関与してきたので、クレーについて少し述べてみたい。彼の『日記』からお気に入りの箇所を引用する。クレーは18才のころ日記を付け始めるのだが、冒頭に子供時代の思い出を記述している。引用するのは彼がまだ6才か7才だった頃、両親に連れられて訪れたマルレイという村での思い出である。(この引用が実に上手く読めた)

 何と美しい記述だろう、なんと洗練された文章だろうか、まるで一編の詩のように私には読める。しかしながら私の疑問は次のようなものだ、いったいこの記述は本当に彼が6才か7才の頃の旅の印象なのだろうか?クレーの日記は画家の死後17年経って、息子のフェリックスが出版したものだが、クレーは生前『日記』を自分で何度か編集し直し、3冊のノートにまとめているのだが、元々の手稿は今日失われたままである。この事を知るのは実に興味深いことである。

 6才か7才の頃、彼が小さな村で見た光景は事実に違いない。それは彼の記憶の種子なのだ(この「記憶の種子」とい言葉がが私のスピーチのキーワードだったのだが)。しかしその記述は日記を付け始めた18才の記述であり、さらに後年33才のときに推敲したものであって、今日われわれが読む『日記』は彼の創作なのである。創造とは「記憶の種子」から「詩」へと至る道程なのだ。

 ここで最初の話題に戻ろう、バウハウス研修旅行に参加した学生の一人は先ほど観て戴いたような優れたプロダクト・デザインを考案したのだが、学生たちは見知らぬドイツを訪れて、呼吸し、感じ、触り、つまりそこに生きたのだ。学生たちは興奮を抱いて旅を楽しみながら、多くの写真を撮っただろう、それらが彼らの記憶の種子なのである。やがて彼らはその記憶からデザインのアイデアを紡ぎ出すかも知れないし、それは直接的にバウハウスであるか、間接的なイメージであるか、あるいはバウハウスとは無縁の何物かであるかも知れない、しかしそんなことはどうでもいい、彼らは早晩あるいは後年、創造の糧を旅の記憶に(記憶の種子に)見出すことだろう。これこそが我々がPerceptionと呼ぶものなのである。

 以上が私のスピーチの要旨である。パワーポイントで画像を見せながらのスピーチであったから分かり難いかも知れない。文末にテキスト全文を掲載する。

 さて、私への質問状というのは、バウハウス施設群を訪れた学生の一人がグロピウス建築の形状にインスピレーションを得てプロダクト・デザインを作ったのは、禅の悟りのようなものなのか?という内容であったが、それほど高尚な話ではないだろうと即座に思ったものの、いや待てよ、私たち日本人のメンタリティーにはそれと気付かず禅の悟りのような思考が自然と備わっているのかも知れないと思い直し、あなたの感想は正しいであろうと返信をした。安岡章太郎に『幕が下りてから』という小説があるが、まさに幕が下りてから芝居が始まったの感がある。 

中国美術院(象山キャンパス)はプリツカー賞の建築家Wang Shuが作った建築群だが、初めてのバウハウス国際会議の開催とあって、たいへん失礼な云い方だが昨今銀座通りを闊歩する中国の観光客とは大いに違って「友遠方より来たる、また楽しからずや」を地で行くような心の籠もったビヘイビアであった。講師ひとりひとりに学生ボランティアのアシスタントを付けてくれた。英語、ドイツ語を理解する学生たちなのだが、私には日本語のアシスタントを付けてくれた。ワン・シャンさんという、デザイン学を専攻する実に可愛いらしい女性であった。

I am very honoured to have been invited as a guest speaker in this meaningful conference that must contribute to our activities regarding Bauhaus in East Asia in the near future.
 
 
Within the limited length of time I have been given, I would like to speak about an example of one of my students that I observed recently. 
A couple of years ago, I had an idea to plan a so-called Bauhaus Tour for students at a design school in Tokyo. I am not a teacher myself but I make lectures from time to time at the school. The purpose of the trip is to show them original Bauhaus sites in Germany. We started this program last year, and did it again this year.. We hope to continue the tour for the coming years.
 
(Image 2, 3, 4)
 
This is a product model of a hair dryer, made by a young student, one of whom I had taken to Germany in March last year together with her fellow students of the same design school. Our study trip took place in over 6 days and we visited Berlin, Dessau and Weimar, namely it was nothing but a Bauhaus tour.
 
Almost half a year later, I had an opportunity to see this beautiful product model of a hair dryer in the school by chance. I also spoke to the student and asked her impression of the Bauhaus tour we had made together months ago. So she said: Oh Mr. Shindo, did you see a hair dryer model of mine? I replied; Yes, I saw it. It’s so beautiful with simple, beautiful solid lines. Then she opened her computer in her arm to show me this;
 
(Image 5, 6)
 
As you can perhaps recognize,, this is a Bauhaus Archive building in Berlin. Needless to say it is designed by Walter Gropius, which was not actually constructed during his lifetime, but anyway, the student showed me these photographs and told me that she quoted or borrowed the shape of roof of Gropius building when she was thinking to design the hair dryer, as a task for her class, in the autumn semester.
 
 (Image 7)
 
I am, however, not willing to tell you how outstanding this product model is. It is not my purpose, but I want to say something else.
 
I have been working as a freelance curator or art exhibition coordinator / organiser for 40 years by making various art exhibitions of particularly Paul Klee but other artists as well for many Japanese museums. Klee was one of the most important artists of the 20th century but also quite an important teacher at Bauhaus.. So I would like to speak about Klee a little.
 
(Image 8)
 
In a book “The Dairies of Paul Klee”, originally published in 1957 by his son Felix Klee, namely much after the artist’s death in 1940, I found many fascinating writings of Klee in his dairy. He began to write his dairy when he was 18 years old, and at very first part of the dairy he described his memory of childhood. The following is one of my favourite parts of his writings.. It is a memory of when he visited a small town with his parents at the age of six or seven;
 
“I clearly recall a stay in Marly, near Fribourg. …..
Marvelous drawbridges. A horse carriage which was said to contain fleas. The Catholicism of the region. A procession. The sisters Küenlin, who ran the boardinghouse. Their French dialect. The hefty lady-director. Gentle Eugenie in the kitchen. The flies there. The poultry yard. The killing of these animals. The squirrel in the wheel. Downstairs, the water with its ticking mechanism. Coffee out side in the afternoon. The cosmopolitan children. Some from Alexandria, who had  already traveled on the sea in ships as large as a house (this I didn’t completely believe). A fat, brutal Russian boy. The walks in the surrounding countryside. The small, swaying footbridges. The grownups’ fright on these bridges. The man who, at the other end, said “Dieu soit béni.” The terrible thunderstorm,  during which we found shelter in an aristocratic country house. The various bowling alleys. Swimming in the brook. The high reeds. Swimming with a couple of gentlemen near a threshold-like waterfall. The sad farewell to this paradise.”
 
What beautiful writings they are! What a refined expression this is!
It is like a poem. Is it, however, really a memory of a six or seven years old boy? This sophisticated cinematic method, making us imagine one clear scene one after another by simple words. My question is this: is this his actual memoire at that age?
 
The answer is Yes and No. Klee began to write his dairy when he was 18 years old when he was a high school boy, and the dairy continued for almost 20 years until the end of World War I, December 1918 when he became 39 years old. But it’s very interesting and remarkable to know that he edited his own dairy several times before and after he finished writing it. . For instance, the first part that I’ve read now was edited in 1913 including re-writing sentences. He was already 33 years old then. He edited other parts of the dairy in 1914, 15, and 1921. The original manuscripts in three or four notebooks are missing today. So, what we read in the dairy today is not the original one but one which he edited and created by himself.
 
Paul Klee was a great reader of German and French literature from his early years. He had a good sense of writing too and it was improved year by year, I suppose. The scenes and sceneries that he saw in a small town at the age of 6 or 7 are all reality, but these beautiful sentences are what he made in later years. What he actually saw at that time such as its scenes, sceneries, and images are only seeds of memory, and seeds must grow up to a small plant then to a tree with fruits. These most beautiful lines as a poem in his dairy were indeed his creation. These are not direct description of memory of what he saw at that time in a small town but it is what he pulled out from seeds of memory in the following years as he developed himself as an artist.
 
Creativity is not copy & paste. Creating art is a process between an original idea or scene or memory that results as an art piece. A seed of memory will travel through the span of a life-time, searching for some particular place where it can become poetry.
 
Now we return to the first topic.. As we saw, a student who visited Bauhaus sites in Germany in Berlin, Dessau and Weimar last year made a wonderful product design in her classroom. During the travel to Germany, she saw so many things and took pictures, probably more than 1000 shots. They are the seeds of her memory.
 
(Image 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15)
 
And one day she may get a specific image for a product design, a fragment of an image direct from Bauhaus, , or some indirect memory from  her travels around  Germany, or perhaps something nothing to do with Bauhaus at all.
 
One of the most important and effective methods to be a good artist is simple; to be careful enough. That’s all. Here is another product design from the same student.
 
(Image 16, 17, 18, 19, 20, 21, 22)
 
Some features of the shape and image comes from Bauhaus, but not directly, because to follow Bauhaus style is not important for her. She had just experienced an exciting trip to Germany by breathing, smelling, touching, feeling, and so on., living there. She is still on the profound journey from seeds of memory to poetry. She will choose something, from time to  time, from her cabinet of memories, but at the same time she might be chosen by something too. It is her journey as a young designer.
 
For better or worse, today people can immediately get thousands of images of Bauhaus or another product and visual design by switching on their computer. But it is not a real, authentic experience at all, it is only information. You cannot create by information only. To draw on paper by pencil is not designing. To design is a more physical activity in a three-dimensional world that we are actually living in. We need atmosphere.
 
Creativity is process. It is sometimes a long and sometimes a short path from the seeds of memory toward poetry, as we saw in Paul Klee’s dairy or in the product design models. So, it is vital to educate design students by showing them actual objects and taking them to actual places. They need to experience how it feels to touch these objects.. From this point of view, Bauhaus Museum of China Academy of Art is a meaningful and respectful project, I would say. And if possible please take students to Bauhaus sites to experience Bauhaus. They will get something there or perhaps they won’t get anything, but it doesn’t matter, because not to design is also to design. This is what we call perception.





 

台峯日乗 91

杭州西湖

十月十四日西湖に遊ぶ。

 前回は詩仙堂に遊ぶと書いたから遊んでばかりいる。七月、娘と詩仙堂を訪ね、座敷に座る娘の写真から三ヶ月が過ぎた。詩仙堂から西湖はいくらなんでも出来すぎている、杭州・西湖は白楽天、蘇東坡といった大詩人等が整備した中国の一大景勝地であるからだ。むろん詩仙堂には二人の肖像画が掛かっている。

杭州ポスター 事の始まりはこの春、杭州市郊外にある中国美術學院からメールが届き、バウハウス国際会議にゲスト・スピーカーとして招待するから来てくれないかの報せだった。以前からデッサウのバウハウス財団経由で美術學院とは連絡を取っていたが、国際会議への招聘には驚いた。まぁでもいっか〜、の乗りで承諾し、8月はパリとスイスに遊び、帰国すると直ぐにテキストの準備に取りかかった。さらっと下書きをして、早稲田と東大で哲学を講ずるイギリス人の友人D.P.に、綴りの誤りや語順、てにをはを直してもらった。肝心な英文はいつも彼に見てもらう。

 果たせるかな、渡航前の一週間は毎日テキストを声に出して読む練習をし、一度として淀みなく読めなかったのが、昔取った杵柄というべきか、45年も前のことだが劇団四季の研究生として俳優の卵であったので、どうやら本番に強いらしく、当日はすらすらとテキストが読めた。そんなことは兎も角も、

杭州校舎

中国美術學院(象山キャンパス)の建物はすべて2012年にプリツカー賞を受賞した建築家ワン・シュウ(かのI.M.ペイに続き中国人では二人目だが)の作品で、学校見学だけでもわざわざ行く価値は十分にある。

杭州校舎2

 しかしながら先月、象山キャンパスの象山(という名の小高い山がキャンパス中央にある)の上に隈研吾設計による工芸博物館もオープンした。ゾウの上にクマが乗っている。

杭州西湖2 西湖に戻ろう。私が一番好きな詩人は(ヨーロッパ、アメリカ、日本も含めて)陶淵明だが、白居易の長恨歌も愛読詩のひとつだ。西湖には、京都の庭のようなソフィスティケイテッドされた緊張感は無いのだが、これまで絵画で何度も観てきた西湖十景を呼吸する気分に満たされて感激頻りであった。中国全土から集まる観光客で道はごったがえしていた。にも拘わらず、景観を味わうに十分であった。また行こうと思う。



 杭州での会議を終え、上海で三日遊んだ。ほんとうに遊んでばかりいるが大丈夫なのか、上海博物館を一日がかりで見学、疲れ切って宿舎に戻った。「永和久年・・・」で知られる筆聖・王義之の実筆の拓本があった。大感激!!!

王義之拓本

 帰国する前の晩、たまたま上海で開かれていた上海芸術祭のオープニング、上海バレエ団公演「長恨歌」を観に行ったのだが全くダメな舞台だった。白居易の原作を敷いた現代バレエだったが、がっかりした。振付をした何とか云うドイツ人は舞台(というもの)がまったく解っていなかったからである。ベンジャミン・ブリテンが謡曲「隅田川」を敷いてオペラ「カーリュー・リバー」を作曲したのとは訳が違う。

 バウハウス国際会議には15名の研究者が参加した。私自身は研究者ではないが、大半がドイツの大学教師だった。中に旧知のヴァイマル・バウハウス博物館館長ミヒャエル・ジーベンブロートとデッサウ・バウハウス財団館長クラウディア・ペレン女史がいたのでほっとした。誰でも知っている『バウハウス』の著者マグダレーナ・ドロステ教授が、スピーチの翌日、私の顔を見て「あんたの講義とても良かったわ」と云ってくれたのが一番嬉しかった。




 

台峯日乗 90

詩仙堂

洛北詩仙堂に遊んだ。

詩仙堂へ来るといつも思い出すことがある。畏友ロベルト・オテロを此処に初めて連れてきたとき、それは雪がしんしんと降る冬の日だったが、庭へ降りて、他には誰もいない日だった、小さな川の流れの橋の上で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いた一節に「自分はいま世界の中心点に立っている」があり、俺はいまそれを感じていると彼が云った。

それは先日来書いている、しつこいようだが、世界から別の世界への入口ということだろう。二度目にロベルトを連れて行ったときには、彼はそれを感じなかったという。ボルヘスの記述のどれがその文章なのか分からないが、先日、久しぶりに本屋へ行って1960年の詩集『創造者』を買った。まだテーブルに載せているだけでページを繰ってはいない。ガルシア・マルケスは好きだが、ボルヘスはより深い。

今日詩仙堂へ行った経緯はとても可笑しい。娘が8月から半年間ニューヨークのダンス学校に留学するのだが、先月末、学校からようやく入学許可状が届いて、大急ぎで学生ビザの申請をし、ビザ取得のための面接を予約しようとしたら最速で8月4日と云われ、今月末にはニューヨークへ行っていなければならない日程にはとても間に合わない。大使館に相談したところ、大阪領事館ならもっと早く面接予約が可能とのことで、では大阪で面接をしてもらうことにして申し込んだが、最速で7月21日、それもリスクだ、やむなく緊急面接の手続を取ったところ、明後日の朝8時半なら可能だと返事がきた。

昨日の夕方、娘と大阪に行き、今朝早く彼女を領事館へ送っていった。入学許可状が届いて以来、ほんとうにビザが下りるのかどうか心配で彼女はろくに眠ることもできなかった。面接はほんの1、2分で済み、来週にもビザを発給しますと面接官に云われて、朗らかな顔で彼女が領事館から出てきた。せっかく大阪まで来たのだから帰りは京都に寄ってパパの好きな場所を訪ねようと彼女に云った。

サウスフェリーからステッテン・アイランド行きのフェリーに乗って、或る日曜の朝、分厚いNYタイムス日曜版を膝に載せ、そのままマンハッタンに戻る船のデッキから朝日に輝くスカイラインを眺めていたとき、ああ、ここから世界が全部見えると思ったものだ、20年以上も前のことだった・・・。彼女がNYで暮らしているあいだ、一度は顔を見に行ってあげよう、フェリーに乗って、彼女にもそれを見せよう。


 

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