台峯日乗106

 

ボロ泣きした。

 

玉川奈々福・銭形平次捕物控雪の精 長編浪曲一挙口演。亀戸駅前、カメリアホール、浪曲の公演には大きすぎる小屋で、PAの調整が不備だったせいもあり、ことばが好く聞き取れない箇所が多くて不満だったが、人気浪曲師の独演会だから仕方がない。

 

 ボロ泣きといって、大仰に云っている訳ではない、横隔膜が上下に痙攣し嗚咽と呼ぶに相応しい泣き方であった。ふたたびカタルシスである。繰り返すが、悲劇の中に恐れと憐れみを体験することで精神が浄化されるのがカタルシスであるとアリストテレスは言う。憐れみとは、デカルトによれば、悪を被るべきではない人々が理不尽にも悪を被るのを見るとき、愛または善意を交えた一種の悲しみであり、羨みや嘲りの反対語である。憐れみと表現するより、日本語にはしかし憐憫の情という便利な語彙がある。野村胡堂原作の銭形平次捕物控雪の精は良く出来た物語であり、憐憫の情を喚起させるに十分な資料ではあるが、われわれは物語に反応しているのではなく、物語によって起こされた驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみ(六大情念)の混合物の(脳内の)化学反応によってカタルシスを体験し、精神が浄化されるのであろう。

 

 帰途、亀戸天神に詣でて、門前の船橋屋に立ち寄ってから隣の中華屋「菜苑」で純レバを食べた。純レバを食べるのは30年振りであった、むかし新小岩に住んでいた頃、蔵前橋通りに面した店前に車を停め、週に一度は純レバを食べて帰宅したものだった。30年経ったいまも味は変わらなかったが、先代の姿はなく、顔のよく似た若者(先代の息子であろう)が厨房に立っていた。

 

 11月朝カル講座の準備は着々とすすんでいる。『意志と表象としての世界』『芸術論20講』『芸術の体系』を下敷きにして、むろんこれらの本には余り触れないが、エッカルト・ノイマン編『バウハウスの人々』をメインテキストに使う(引用)積もりである。『バウハウスの人々』は1964年の出版だが今年ようやく日本語訳が出た(みすず書房)。バウハウスに関わりのあった人々の回想エッセイとインタビューのアンソロジーで実に面白い。中でもフェリックス・クレーの回想が好い。バウハウスとは、一言で云えば規律あるカオスである。「規律あるカオス」は語義矛盾なのだが、クレーが日記に記した「記憶を伴った抽象」にそれは通底する。

 

 上の写真は娘がコペンハーゲンから8月31日に送ってくれた。先月、娘は望みどおりデンマークの会社に就職した。当分日本には帰って来ないだろう。

 

 

 

 

 

 


台峯日乗105

 

生まれて初めて浪曲の実演を観に行った。カタルシスであった。

 

 事の始まりは、3、4日前であったかSNSのどこかに玉川奈々福さんの記事があって、彼女のブログへ行ってみると彼女は以前筑摩書房の編集者だったと書いてあり、ひぇ!そんな人がなぜ浪曲師にと驚いた。筑摩書房とは多少の縁があって、大昔(奈々福さんは未だ入社していなかったかも知れない)モダニズムの詩人西脇順三郎全集を買うために、当時編集部にいた女友だちに頼んで社内割引で購入してもらい、毎月、それを受け取りに通っていた時期があった。それは兎も角、硬い出版社に勤めていた方が趣味で始めた三味線がきっかけで遂には浪曲師になった話は面白く、これもご縁だと思い込んで行ってみたのである。

 

 しかし本当の事の始まりはそうではない。新小岩セミナーで読んでいるアランの『芸術論20講』の元になった『芸術の体系』(これはアランが第一次大戦の従軍中にメモに採った考えを戦後1920年に上梓した書物だが)を読み進めていたら、結局アランが云っているのは「芸術の役割とは情念の浄化である」つまりカタルシスであることに行き当たり、それから現代にも、もしカタルシスがあるのだとしたらどのような体験だろうかと、私はこれまでに見聞したオペラや舞台(芝居)や音楽会をいろいろと思い出していたところに、上記浪曲の会を知って、直感的に、ギリシャ人ではなく日本人にとってのカタルシス(アリストテレスが『詩学』で展開した、悲劇の中に恐れと憐れみを観るー体験するーことで精神が浄化されるというのがカタルシスの意味なのだが)が浪曲にもあるに違いないとの思い込みから出掛けて行った。

 

 更に実の、本当の事の始まりは、11月の朝カル講座で「バウハウスのクレー」を取りあげクレーと音楽の話をまとめてみたいと思っていて、その延長線上というか下準備でアランに寄り道することになったのだが、情念という言葉を盛んに使う彼の文脈と視点は私にはとても新鮮で、そこにも浪曲が引っかかってきたのである。

 

 さて当の浪曲会「河内山」は至福の時間であった、つまりカタルシスであった。先ず客筋が良い、こんなに浪曲を愛している人たちに混ざって浪曲を聴くのが悪い筈がない、日本でクラシックの音楽会へ行くと必ずしも音楽を愛している人ばかりではないので空気が薄く、私はその場に馴染めない気持ちをよく抱く。それに比べて上野広小路亭のお客は(大半は奈々福ファンだが)演じる人との呼吸を心得ている。それはさておき、河内山とは天保のころ江戸に実在した茶坊主河内山宗俊のことで、その実像とは関係なく河竹黙阿弥が勝手に拵えた大悪人のキャラであり(後に講談に起こされ更に浪曲に起こされたらしい)、例によって物語は荒唐無稽、そうか、荒唐無稽と云えばクレーが惚れ込んで挿絵を描いた『カンディード』を思い出すが、話の中身はマンガなのである。にも拘わらず、何故カタルシス体験なのか、唄と語りと、音曲が始まった途端に聴衆は何処かに持って行かれてしまう。それがどの様な世界(物語)であろうとそれは関係ない、見事な芸(空間)なのである。

 

 帰りがけロビーに出ていらした奈々福姐さんとちょっと立ち話をした。「生まれて初めて浪曲を聴いたんですよ」と云ったらびっくりされた、しばらく奈々福通いになるだろう、いや、そんなことはしていられない、クレーと音楽のことを哲学的に考えねば。

 

 

 

 

 


台峯日乗104

 

クレーの絵でどれが一番好きですか?とよく聞かれる。『わずかばかりの友情』(1932年)が好きだと答える。原題は"Ein Fetzen Gemeinschaft"で「共同体の破片」という意味だが、わずかばかりの友情とは誰の訳か不明だが名訳である。

 

 猛暑の夏が過ぎてゆく。全国高校野球選手権を8月6日の初日から、大切な仕事を後回しにして、朝8時15分の放送開始から試合終了まで毎日テレビで観ていた。全試合を観戦したが決勝戦だけは観られなかった。観ていて面白かったのは(今年から?)出場校の校歌が聴けることだった、今までは勝ったチームの校歌が試合後に流れるだけであったのが、2回の攻撃の後にそれぞれの校歌が場内に流れる。作詞作曲の名前も出てくる。校名は忘れたが中に折口信夫の作詞があった。正直に云えばあまり評価できる歌詞ではなかった。山形県代表鶴岡東高校の作詞は詩人真壁仁さんだった。ずいぶんむかし、雪の山形で酒を酌み交わしたことがある。たしか『歴程』の詩人であったが御大・草野心平を真っ向から批判する気骨の詩人だった。その夜、真壁先生が話してくださったことは今でもよく覚えている。お会いしたのはその日限りで、後年『野の教育論』を上梓され、私のライブラリーの何処かに隠れているはずだ。これまで聴いた甲子園の校歌の中では、何と云っても蔦文也監督率いる徳島県池田高校が一番であった。「光、光、光を呼ばん」の歌はまだ聴覚のどこかに残っている。

 

 なぜ毎年のように高校野球を熱心に観戦するのかには理由がある。昭和53年の夏、青戸の実家で高校野球を観ていたある日、私たち男3人の兄弟がみな上半身裸であったのを見て、母が名状しがたい微笑みを浮かべながら「男の子三人が裸で並んでいるのは逞しいわね」とポツリと云った。母も野球が好きで、その夏彼女は既に末期癌で、思うように身体も動かずに寝たり起きたりの毎日であったが、兄弟3人が揃って裸で甲子園を観ているのが嬉しかったのであろう。夏が過ぎて、9月半ばに母は死んだ。つまり私にとって夏の甲子園観戦は母の供養なのである。あれから41年目の夏だ。

 

 

 


台峯日乗103

 

今からひと月前のものだが、ほかに載せるPhotoが無いので、隣の女子校に咲いた紫陽花を公開する、私は毎日のように石垣の上に植えられた紫陽花の前を通り過ぎて坂下まで下りて行った。春は桜、秋はイチョウ、梅雨時は見事に紫陽花が咲き揃う学校の敷地を回り込んだ先に私のアパートがある。ベランダに出ると時折り、女子生徒たちが練習する器楽や歌や合唱が聞こえてくる、中高一貫校で音楽コース・音楽科のある、全員が音大受験の生徒たちの練習だからとても上手で、ここに引っ越してきた直後、まるで木下恵介の映画のなかで生活しているみたいだとブログに書いた。

 

 カンディンスキーが自著に引用した『ヴェニスの商人』の一節を手掛かりに「バウハウスのクレー」というスピーチ構想を練ると前回書いたが、一向にプランは進まず、つまり論旨がはっきりと見えてこないまま二週間が過ぎた。慌てることはない、スピーチは11月末だ。ちょっと遠回りをしてアラン『芸術論20講』を読んでいる。本書は1929年11月から翌年4月にかけてアランが講じた連続レクチャーで、実に南海ホークスだ。面白いのは、彼が専門的哲学者ではなく高等学校の教師として生涯の大半を過ごすなかで得た哲学的文脈が、主にカントとヘーゲルを敷いており、フランス人なのにドイツ観念論に立脚してところが私には親しみ深くまた心地良い。次回の新小岩セミナーで取りあげる予定なので、難解とは云え、間に合うように読了すべく毎朝読んでいる。

 

 アランで思い出すのは、20年ほど前、宮城まり子さんから吉行淳之介文学館(静岡県)にクレーの絵を飾りたいのよねと云われ、彼女を連れてベルンのクレー家を訪ねたのだが、クレー家から作品を1点譲り受けた話題は横に置くとして、旅行中、彼女が「わたしね、大昔だけどアランに会ったことがあるのよ、そのときアランさんが、今のあなたには難しいかも知れないが私の著作を一冊差し上げましょうと云ってくださったのよ」という話をお聞きしたことだ。どの著作だったのか未だに不明だがおそらく最もよく知られた『幸福論』ではなかったかと思う。

 

 昨日、神奈川県立近代美術館葉山へ展覧会を観に行った。『みえるもののむこう』女性芸術家5人の、絵画、映像、ダンス、立体、コンセプトによる展示で、とても好かった。好かったと云うのは、現代芸術は壁に掛かった作品を鑑賞する(視る)のではなく「体験」するのだという(ニューヨーク北方"DIA:BEACON"のコンセプトだが)それを実感できる実に爽やかな空間だったからである。掛け値なしにお勧めする。知人3人と連れだって美術館に入る前、一色海岸ブルームーン(海の家)でランチした。私は車を運転して行っていることをすっかり忘れて、昼間から生ビールをぐびぐび飲んだ。「バウハウスのクレー」を考えなければ・・・。

 

 

 

 


台峯日乗102

 

カンディンスキーの芸術論集『芸術の精神的なことについて』(2000年に新装発行された著作集では『芸術における精神的なもの』と訳されているが、私は私のエッセイ集の書名をこれをパロって『芸術の非精神的なことについて』にした)の第6章「形態言語と色彩言語」の冒頭に彼は、次の引用を引いている。

 

 自己のうちに音楽をもたず、甘き楽のしらべにも心動かされざる人は、裏切りと悪だくみ、追いはぎにこそ相応しい。その魂の動きは、夜のごとく鈍く、その情は冥府のごとく暗し。そのような人を信じてはならぬ!・・・音楽に耳を傾けよ!

 

シェイクスピア『ヴェニスの商人』第5幕の台詞だが、私の好きな福田恆存の訳では

 

 おのれのうちに音楽をもたざる人間、美しい音の調和に心うごかぬ人間、そんなやつこそ謀反、陰謀、破壊に向いているのだ。その魂の動きの鈍きこと闇夜のごとく、情感の流れの黒きこと黄泉と境を接するエレボスのごとしだ。こういう人間を信用してはいけない・・・さあ、音楽をお聴き。

 

福田訳のエレボスとは地下世界を象徴するギリシャ神話の神のことだが、今年11月に朝日カルチャーセンターで講座を持つことになり、講座名は「バウハウスのクレー」にした。そこで私は早々と資料に当たりはじめ、最初に頭に浮かんだのが上のカンディンスキーの引用である。バウハウス設立100周年、ドイツは元より世界中でバウハウス記念行事が開かれている。先日もNYの友人がNYタイムスの記事を送ってくれたのだが、コロラド・アスペンに関する記事で、バウハウス教師ヘルベルト・バイヤーがアメリカに移住後、如何にアスペンの街作りに(バウハウス的に)貢献したかという興味深い内容であった。グロピウスが教鞭を執ったハーヴァードは云うまでもなく、幻の美術学校ブラック・マウンテン・カレッジ(ノースキャロライナ)、シカゴのニューバウハウス、モホリ=ナジ、ミース、アメリカにはバウハウスの亡霊若しくは残滓が数多く残されているし、グロピウスの理念、すなわちイデー(Idee)プラトンのイデア、ものの本質・根源、どんな物質も通過してしまうニュートリノのように、精神の壁を突き抜けるバウハウス理念がアメリカ国内にも浸透した。

 

私の講座のアイデアは、カンディンスキーが何故、芸術論集(バウハウスより以前、1909年頃に彼は執筆したのだが)にシェイクスピアを引用したのかをナビゲーター(通奏低音)に据えてクレーのバウハウスでの役割を考えることなのだが、上手くいくかどうかは未だわからない。上の引用はヴェニスの商人の物語とはまったく関係のない(多少はあるが)突然シェイクスピアが挿入したエピグラムなのだが、直感的に、バウハウス時代のクレーを言い当てているように思えるからだ。これは実験であり、これから四ヶ月あまり、資料に当たりながら私の直感が正しいかどうかを試してみたい。従って当欄の読者は朝カルの講座などに来なくても、今後のブログを読んで戴ければ講座を聞くことになる。講座はむろん難解な話題を避けて平易な日常語で(できれば筒井康隆さんの講演「誰でもわかる『存在と時間』」のように)話すつもりだが・・・。

 

 女子ワールドカップサッカーの決勝が終わった。結果を観ずに、テレビ放送の途中で眠ってしまったがアメリカの優勝だった。順当である。2011年7月17日、なでしこジャパンが優勝したその日、私はフランクフルトの競技場にいた(上の画像はその日の入場券とそのとき食べたホットドッグの袋、わたしの宝物である)、私の人生で最も誇れる(自慢できる)見物であった。かつて当欄にも詳しく書いた。

 

 

 

 

 


台峯日乗101

 

昨日、汐ちゃんを抱いた。

汐ちゃんとは、三日前に生まれた私の孫娘である。余りにも小さくて驚いた、私にはかつて4人の子どもたちが生まれた直後に抱き上げた経験があるが、こんなに小さかった覚えはない、顔はまるで醤油皿の大きさで、授乳を済ませたばかりだったので彼女はぐっすり眠ってしまい、眠る顔だけを見ていた。最初の孫を抱いた人なら誰でも同じだろうが可愛くて可愛くて堪らない。未だ3Kgにも満たない彼女はそれでも暫く抱いていると重く感じられ腕が痺れた。

 

久しぶりに新小岩セミナーがあった。新小岩セミナーとは以前当欄に書いたが、高校時代の友人(先輩)Wと駅前のファミレスで由無し事をべらべらと喋るだけで私は受講者として解らないことをもっぱら質問する。この冬、ハイデガー『芸術作品の根源』読書会をやろうとどちらからともなく云いだしたが、一向に始まらない。私は2回読んでおおかた60%を理解したがどうしても理解できない箇所が多くある。

 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を読んでいる。今年2月、日独文化交流のNPO法人が連続講演会の一環で私に講演依頼があり「バウハウスの舞台工房」の演題で話す機会を得たが、キーワードを表象としたので年末から読みはじめた。講演の出来不出来は別として教えられることが多々あった。私は限りなく読字障害に近い遅読癖なので、年末から読みはじめた三巻本の第二巻に入ったばかりだが(先週、閑話休題で荷風の『葛飾土産』文庫版を読み、巻末で石川淳がケチョンケチョンに荷風をこき下ろしているが賛同は保留する)、西尾幹二の訳は丁寧でとても読み易い。しかし理解可能な部分と不可能な部分がある。理解不可能な部分は後日の再読に委ねるとして、読み進めながら分かったことは、ハイデガーの役割(の重要性)である。

 

胆のう全摘手術を受けて数日入院していた二年か三年前、木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』を耽読して以来ハイデガーに魅了されたことは書いたと思う。更にその数年前、ハイデガー『芸術作品の根源』読書会(ドイツ文化会館)に参加したことでクレー芸術との関連を考え始めたが、今回、ショーペンハウアー著述の中にハイデガーがちょくちょく顔を出していることに気付いた。

 

荒っぽい云い方を怖れずにすれば(荒っぽ過ぎるが)、つまりこういうことなのだ、古代ギリシャ哲学が忘れ去られイスラム語に翻訳されて永いあいだ眠っていたその文脈がラテン語に再翻訳され、科学(の概念)の登場で世界(観)は魔術から物理として再構築され、更に反転して、形而上学を解体してしまった懐疑主義者ヒュームに真っ向から立ち向かったイマヌエル・カントが登場する。カントの三批判書はまだ本文を読んでいないので何も云えないが、ショーペンハウアーがカントを批判しつつデカルトの「イデア」を主人公にして描いた『意志と表象としての世界』があり、ヘーゲル、ニーチェその他大勢のドイツ観念哲学の保守本流へと続く。ハイデガー『存在と時間』は、これらの文脈をすべて整理整頓し、哲学(形而上学)が何を目指してきたのか、何処へ向かおうとしているのかを、卓越した調査能力と編集能力でまとめた著述であることに気付いた。ハイデガーは自身哲学者であるが、それ以上に、もの凄く優れた哲学研究者哲学史家なのである。この荒っぽい物言いに、新小岩セミナーの論理学者Wも苦笑いをしながら否定しなかった。

 

J.M.W.ターナーの水彩画『ベルロック灯台』(1819年)を上に掲げたのにも意味がある。実は引用の美学という概念を拵えようとしているのだが、ここで云う美学とは学術用語のエステティックスではなく、例えば男の美学などと愚かな云い方をする場合のそれである。北斎『神奈川沖浪裏』が波の伊八作「行元寺欄間彫刻」と瓜二つであることに私も当初は戸惑い、これは明らかに北斎の剽窃だと思ったのだが、浮世絵研究者にもインタビューして意見を求めたところ同時発生的な偶然だと主張した。上述ハイデガーの事情を吟味するうちに、いやいや待てよ、それは剽窃ではなく引用と呼んだ方がいい、浪裏と行元寺欄間のコンポジションはまったく同じであり、むろん欄間が先に作られ(1804〜9年)浪裏はそれから20年以上も経た1831年に刊行が始まる富嶽三十六景の一枚である。北斎が伊八をそっくり真似たことは、北斎の価値を損なわせることではなく、逆である、伊八の構図をそっくり引用したことで北斎の慧眼が賞められるべきであり、それによって近代絵画の世界的な扉を開いた。ハイデガー『存在と時間』にどこか相似した引用の美学の、編集美学の、プロデューサー能力の営為なのである。しかし北斎も迷ったに違いない、もし未だ生きているなら本所辺りの画室を訪ねて「ねえ、どうなの?」と聞きたいところだが無理だ。ターナーの波こそ同時発生的なイデアなのである。

 

 


台峯日乗100

Kochel

 

頭がバカになってきた。今更の話ではないのだが、ますますバカになっていることは確かだ。かてて加えて老眼が進み、いま使っている老眼鏡が役に立たなくなってきている。こうしてブログを書いていてもPCの文字が霞んでよく見えない。お正月になれば数えで70なのだから仕方ない。

 

 バカになってきたというのは、文字どおり脳細胞の健康が冒されてきた意味で、モノを考える力が徐々に失われつつある恐怖である。人間の頭脳は60才を頂点に発達し続け、それから退化するとむかし何かで読んだ記憶があるが、実際60になったとき、ああこれが俺の脳の頂点か?と思った。しかしそんなことはなく、むしろその後の方が難しい本を読むようになり、解らないながらも脳内に蓄積される気がしていた。もともと演算速度が速い方ではなく、つまり鈍いのだが、それでも時間を掛けて本を読めば必ず理解できるとの思い込みがあった。ここにきて幾ら時間を掛けても読解の困難に突き当たる。哀しい事態である。もともと読字障害の気があるので尚更である。

 

 今年いちばん幸福であった瞬間を上の写真に示した、4月21日の早朝だ、大好きな娘たちを連れてベルリンからニュルンベルク、ドレスデンを経由してミュンヒェンへ行った。彼女たちがブラントホルスト美術館でトゥウォンブリーのレパントの戦い連作を観ていた後ろ姿も忘れ難い光景であったが、無事に「ミュンヒェン・スピーチ」を終え、翌日はクレー・シンポジウムの会場を郊外のコッヘル・アム・ゼーに移して終日レクチャーやディスカッションに参加したのだが、ドイツ語イベントは退屈だろうから湖の周りを歩いておいでと彼女たちを解放した。ピナコテーク・デア・モデルネから「もしお望みなら4月20日はミュンヒェンに戻らずにコッヘルの宿をお取りします」との嬉しい提案があったので、是非とも20日の晩はコッヘル・アム・ゼーの宿舎をお願いしますと返答しておいた。私たちはその夜、夢のように美しい湖畔のホテルに宿泊し、翌朝目覚めて、部屋のテラスから眺めたのが上の写真である。

 

 ニュルンベルクでは彼女たちを国立ゲルマン博物館へ連れてゆき、世界最古の地球儀を見せた(もちろんデューラーも)、世界最古の、アメリカ大陸の無い地球儀は理想の世界像だと云うと大笑いしていた。ドレスデンでは運悪くゼンパーオペラはお休みで、その日はシュターツカペレの定期演奏会だった。ルチアーノ・ベリオ『八声とオーケルトラのためのシンフォニア』、チャイコフスキーの5番、ペテルブルグ出身の指揮者セミオン・ビチコフのチャイコフスキーは骨太で猛々しく、ああ、これがチャイコだよな〜!と感心して堪能した。ミュンヒェンを発つ前の晩、ここでも宮廷歌劇場の公演がなく残念だったが、レジデンスの礼拝堂でクワトロスタジオーニ(四季)の小演奏会があるというので三人で出掛けて行った。小編成の弦楽グループで音は洗練されてもいず、演奏は上手くも無く、何だか騙されたようなコンサートだったのだが、それでも曲が良いから大いに満足した(そういえば3年前、クリスマスのヴェネチアで同じ体験をした)。四季のなかでは冬の曲がいちばんいいねと下の娘が云った。

 

 上記の話題はすでに今年ブログに書いていると思う。頭がバカになってきたので同じ話を繰り返している。ハイデガーは『存在と時間』のなかで、本来的時間性と非本来的時間性という概念を持ちだして、自己の〈時間化〉という厄介な働きについてなのだが、前者の時間性を将来・既在・現在と呼び、後者を過去・現在・未来と私たちが普段抱いている普通の時間感覚として呼ぶが、これは難しいことではなく、己の死という絶対的な時間感覚が前者で忘却と期待に挟まれた「今」に触れている(生きている)状態を後者とするだけで、平たく云えば、人は自己の死に対峙する「本来的時間」とあれこれを気にして過ごしている(フツーの)「非本来的時間」の間のグラデーションを生きているということである。無論そんな単純な論理ではないが、バカになってきた頭の理解はそれで良い。本来的時間性へと自分を時間化することで得られる境地を存在了解と云う。本来的な存在への道なのだが、それは個々の自由に委ねられる、逆に云うとこれが人間にとっての〈自由〉(という意味・概念・真理)なのだとハイデガーは示唆する。従って私の、愛する娘たちとのドイツ旅行への回顧はまるまる非本来的時間性のジジイ話であり、しかし「今年いちばん幸福であった瞬間」という感想即ち4月21日早朝のコッヘル・アム・ゼーやチャイコフスキーの5番やヴィヴァルディ「冬」への愛着には本来的時間性の匂いもする。

 

 今年は期せずして人前で喋る機会がたびたびあった。たびたびという程ではなかったが、普段そのようなことがないので度々と感じた。ミュンヘン・スピーチについてはブログにもしつこく書いた。11月11日(たばこと塩の博物館)で「クリムトのウィーン」という講演をした。何故そんな講演をしたかについては略すが、90分の持ち時間で大失敗であった。大失敗ではないが普通に失敗であった。話せば長い。グスタフ・クリムトの話をすれば事足りるのに、それにパワーポイントで見せる画像もたっぷりあったのだが、依頼を受けた7月から準備を始め、夏のあいだ資料をかなり読みこんでいたのが失敗の原因である。ウィーンの話なら『ウィトゲンシュタインのウィーン』じゃないか?と、例の新小岩セミナーで云われたのが運の尽きで、そうそう、そういえば『ウィトゲンシュタインのウィーン』なら何処かにある筈だと探し回り、しかし無かったのでAmazonで文庫版を買い、熱心に読んだ。読んでみるとさっぱり解らず、これはいけないともう一度耽読、ようやく大意は取れたのだが、そこに書いてあったのはウィーン世紀転換期で読まれていたイマヌエル・カントからアルトゥール・ショーペンハウアー、セレーン・キェルケゴールそしてレフ・トルストイへと繋がる思想の文脈だったので、今度は『純粋理性批判』から読むべきかと考えたが、それはムリで『90分でわかるカント』と他の小資料に目を通した。それで気が付いたのは、なにもカントの思想を詳細に知る必要はなく、上述の文脈は形而上学の復興から近代の倫理学へと連なるものであることを掴めばよいので、しかもカント→ショーペンハウアー→キェルケゴールの流れがトルストイ『アンナ・カレーニナ』に色濃く反映されているとの『ウィトゲンシュタインのウィーン』著者等を信じて最後は『アンナ・カレーニナ』を耽読した。

 

 結局、バカになった私の誤りは、こうしたウィーン世紀転換期の哲学の地層がクリムトとはほとんど関係がなかったことである。クリムトはカフェに集う知識人(嫌なボキャブラリーだが)たちから距離を置き、哲学のことなど何も考えてはいなかった。言い直せば考える必要などなかった。彼は装飾画家であり装飾画家に徹した職業人であった。それなのに私は哲学文脈が面白くなってしまって、ほんの少し当時のウィーンについて触れれば済んだものを、クリムトと哲学文脈の双方を講演プランに組み入れて仕舞い、それら全部を話そうとしたのである。講演の後半はズタズタになり、来てくれた友人の一人がそれを指摘した。情けないことであった。

 

 12月1日は岡山県文化連盟から呼ばれて『クレーと食』について話した。準備もなにもなく拙著『クレーの食卓』と『クレーの日記』について短いスピーチ、それから参加者の皆さんと一緒にクレーが作った料理のなかから大麦のスープを選んで作り、食べた。これはなかなか楽しいイベントだった。食について話すなら当然、岡山出身の内田百里砲眇┐譴覆韻譴个覆蕕差欧討董惴翆攸帖』を読んだ。百里麓造鵬直个靴平佑如鎌倉ハムをハマクラカムと云い、北町区役所前(停留所)をクヤチョウ・キタクショ前、メンデルスゾーンのコンチェルトをコンデルスゾーンのメンチェルトなどと云ったらしい。この言語感覚はクレーにも相通ずる所がありますと落ちをつけた。イベントが終わり、コンビニで缶ビールとおにぎりを買ってホテルに帰りしょぼしょぼとテレビを観ていた侘しい講演旅行ではあったが・・・。

 

 次回は来年2月15日。今度は失敗しないようにしよう。文化日独コミュニティーというNPO法人が今年7月からバウハウス100周年の連続講演会を開いており、私は第4回の担当で「バウハウスの舞台工房」を話す。毎年20名弱の学生を連れてドイツでのバウハウス研修旅行を行ってきたのでその話である。実際に学生たちにワークショップをしているのはデッサウ・バウハウス財団のトルステン・ブルーメだが、私は当初から通訳兼アシスタントとして手伝ってきた。学生たちはドイツ到着早々、美術館を訪ねてそこで見聞する展示物を手掛かりに造形に取り組みはじめる。それからバウハウス校舎にある旧学生アトリエに泊まり、クレーやカンディンスキーが教鞭を執っていた教室でワークショップを行う。それだけでも彼らにはちょー感激なのだが、最後は自分たちが拵えたカタチやマスクを身に付けてバウハウス舞台でパフォーマンスをする。これについては後日くわしく書いた方がいい。

 

 要は、舞台でのパフォーマンスがデザインを学ぶ学生たちにとってどんな意味があるのかということなのだが、私は「表象」という語をキーワードにして話す積もりでいる。なぜなら、たばこと塩の博物館で失敗した講演のために首を突っ込んだ資料の中からショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を援用したいからである。転んでもタダでは起きたくない。


台峯日乗 99

 

コペンハーゲンに留学している娘から校舎内部の写真が送られてきた。

 

殺人的猛暑に見舞われた今夏、極力ひっそりと家にこもって資料を読んでいた。資料というのは世紀転換期ウィーンについての書籍類で、来月「たばこと塩の博物館」で講演をするのでその準備である。埃を被ったウィーン関連の本を引っ張り出して久しぶりに読んでいる。

 

たばこと塩の博物館で『ウィーン万国博覧会』という展覧会が開かれる(11月3日〜19年1月14日)ことになり、記念イベントでクリムトの話をして欲しいとの依頼だったが、聞けばウィーン万国博覧会は1873年に明治政府が初めて公式に参加した万博で、展覧会の内容は開催の経緯、博覧会の概要、日本から展示された物品の一部などで構成されクリムトのクの字もない。金ピカのクリムト作品『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』について話ができないか?とのリクエストは、名誉なことだが、展示内容とは無関係なテーマであり(クリムトのジャポニズムに通底する間接的な要素はあるにしても)、数年前ヒットした映画『Woman in Gold(邦題・黄金のアデーレ 名画の帰還』)』を講演の話題にするのは、地味な展覧会の講演に派手なクリムトで人を呼ぼうとするサギではないかと私は躊躇した。

 

そこで一計を案じ、シーレ、クリムトの素描を所蔵する友人Kに、クリムトの素描をたばこと塩に貸し出して戴けないかと願い出、所蔵家は快く応じてくれたので『ウィーン万国博覧会展』にグスタフ・クリムトの優れた素描2点が特別公開されることになった。これで私のサギが免れる。

 

講演プランをあれこれ考えているとき、例の新小岩セミナーで『ウィトゲンシュタインのウィーン』は知っているか?と問われ、もちろん知っている、何処かに本書がある筈だがもう何十年も見ていないと答えた。そうだった、1979年『エゴン・シーレ展』、1981年『クリムト展』、1985年『シーレとその時代展』をプロデュースした頃、私は頻繁にウィーンに通い何冊もの資料にも当たっていた。そのとき(邦訳は後年だったか)買った一冊が『ウィトゲンシュタインのウィーン』だった。本は書架のどこにも見当たらず、Amazonで古書を買った。そして読んでみると、これが実に難解な本であったことが分かった。当時私は本書をほんとうに読んだのか、買ってそのまま放置したのか、更にヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』も間違いなく手元にあった一冊だったが、これも見当たらず(理解できないなりに読んだことは確かだ)、あまりにも懐かしい空気に触れる一方で、さて、もう一度最初からウィーンを読み返してみなければの事態に到った。未だに読解が続いているが、しばしハイデガーを休んで、ウィーン読書に専念している。

 

"Wittgenstein's Vienna"(1973, Simon & Schuster)(ウィトゲンシュタインのウィーン)の著者S.トゥールミンは英国生まれの科学哲学研究者でケンブリッジで直接ヴィトゲンシュタインの講義をうけたことのある人物だから思い入れが強い(後にアメリカに渡りスタンフォードで教えた。2009年没)。共著者A.ジャニクはアメリカ生まれの同業者でトゥールミンとは逆に、後にヨーロッパに渡りウィーン大学を皮切りにさまざまな研究機関で教鞭を執ってきた。彼らの調査は徹底していて科学哲学史を軸に、思想史としての世紀末ウィーンを丹念に分析する。本書の目的はヴィトゲンシュタイン(私はどうしても英語読みのウィトゲンシュタインに馴染めない)『論考』の読解(新解釈)だが、この部分は私にはどうやっても理解できない。しかし辛うじて名前だけは聞き覚えのある、本書に登場する数十人のキャラクターの話題は面白くて仕方がない。二回通読したがもう一度は読んでみる積もりである。

 

もちろんクリムトも登場する。講演プランは『ウィトゲンシュタインのウィーン』をアンチョコにして作っている。娘からコペンハーゲン・ビジネス・スクールのキャンパス写真が送られてきて、なんとまあ美しいモダニズム建築だろうと思ったのだが、著書『装飾と犯罪』で知られるウィーンの建築家アドルフ・ロース(1870-1933)を想起せずにはいられなかった。

 

 1910年に建てられた個人住宅シュタイナー邸は、当時のウィーン人には未だ建設中の躯体工事の途中にしか見えなかったに違いない。同時代のオットー・ヴァグナーと並んで、アドフル・ロースこそモダニズム建築の嚆矢(のひとり)であり、バウハウス前史(バウハウスは1919年開校)として再評価されねばならない(私が知らないだけで、アドルフ・ロースをバウハウス建築の出発点にした書籍は既にたくさん出ているのかも知れない)。トゥールミンたちの著書でも、ロースの思想は或る重要なキー・コンセプトになっている。ここ10年あまりバウハウスと関わってきた私にとっても、ロースは再考しなければならないテーマであることを講演依頼が思い出させてくれた。

 

 という訳で、猛暑の夏は難解な書物に向き合う幸せな時間であった。これから半年、暗くて寒い冬の空に覆われる北欧だが、キャンパスの裏庭にはまだ緑々とした芝が見える。

 

 

 


台峯日乗 98

 

 ジョン・マッケイン氏が亡くなった。マッケイン氏には何ら興味はないが、バラク・オバマとマッケインが大統領選を戦ったとき、私は数日ヒューストンに居たことがある、街をブラブラして選挙ショップを覗いたら、大統領選も大詰めの頃だった、キャンペーンTシャツがバーゲンになっていたので敗色濃厚と云われたマッケイン応援Tシャツを買った。ピンク色の実にオシャレなTシャツだった、あれから何年になるのだろう、大事にしていたがいつの間にかTシャツが手元になくなっていた、残念。どうでも好い話題だが・・・。

 

 友人の瀬川裕美子が出演するので、一昨日に引き続いて両国へ行った、ドビュッシー没後100年記念ピアノ・コンサート(フランス現代音楽協会)の会場が両国の門天ホールという場所だった。両国付いている。写真は、もう何年も電車からしか見たことのない隅田川を、コンサートの帰り、歩いて両国橋を渡ったので橋上から眺めたものである。鮎川信夫に『橋上の人』という詩があった。

 

 詩といえば、この炎天下ベランダに蟻が大勢出て、干涸らびたヤモリの子どもや小昆虫の遺骸をせっせと運んでいる、先日も蛾が死んでいたのを何匹もの力で運んでいた。「蟻が蝶を運んでいる ああヨットのようだ」松村英子だったと思う、小学校か中学校の教科書に載っていた。

 

 今年2月、恒例 Segaway Project(瀬川裕美子ピアノ・リサイタル、彼女はここ2、3年パウル・クレーをテーマにプログラムを組んでいる、それで私も知己を得たが)のアンコールで、事もあろうに瀬川がヘルダーリンの『暁の歌』を唄った(弾き語り)、へっ!ピアニストが演奏会のアンコールで歌を唄うか??!!とびっくりしたが、よくよく考えれば正しい。ハイデガーも『芸術作品の根源』のなかに、詩の、詩的言語の、ことばの、哲学を乗り越える(?)地平に、ヘルダーリンの「漂泊」の一節を引用している。

 

 一見脈絡のないことをゴチャゴチャと書いているが、ウィーン世紀転換期の資料で言語批判、言語論、言語哲学の一端に触れていると私の頭の中は点、点、点であって、これらを線で結ぶための試行錯誤であるから許されたい。今日のコンサートで初演された伊藤美由紀さん(作曲家)の2台のピアノの為の『二重星』は、光学望遠鏡で覗くと重なって見える二つ星が実は相当に離れた星どおしで、二つの音(オン)の共鳴と不共鳴を狙った曲だと仰っていらしたが、ことばにも似たような状態が生じる、外国語を日本語に翻訳すると尚更である。二重星というタイトルを目にして、昨年であったか、レクチャーと演奏(名前を失念したがイタリアの人の好いおじさんであった)を二日掛かりで聴いた「シュトックハウゼンの星座(コンステレーション)」を思い出した。伊藤美由紀さんには失礼だが基軸が違うのである、ベートーヴェンを背負ったシュトックハウゼンの情熱的な時空にあらためて敬意を表したい、と思った。

 

 「存在了解」がいろいろな方角からやって来る。ベルイマンの項で書いた映画的言語とは、映画による言語、視覚と聴覚を同時に刺激するランゲージのことで、言語批判を含むが存在了解とは関係ない。映画は娯楽であり思想でもあるが、音楽のように純粋言語ではない。今日、ドビュッシーとドビュッシーへのオマージュとして捧げられた日本の現代音楽を聴きながら確認した。クロード・ドビュッシー没後100年、近代が完全に終止符を打った1918年にドビュッシーが亡くなったのも示唆的であった。


台峯日乗 97

今宵『魔笛』を観た。

 

 両国のシアターΧ(カイ)が毎年夏に上演してる入場料1,000円の「あえて、小さなオペラ『魔笛』」である。こんな公演があるのは知らなかった、三日ほど前のことだったか、たまたまFBに誰かがシェアした記事を目にして、即、劇場に電話してチケットを予約した。何とも云えない舞台だったが感激した。♫パッ、パッパッパパ〜で始まるパパゲーノ・パパゲーナのデュエットを聴いていたら涙が出てきた、しばらく私に彼女がいないせいだろう、笑。

 

 私は戦後民主主義が嫌いで、従って大江健三郎も嫌いだが、階級社会が好きなので(ホセ・ガルシア・イ・ガセットの影響で)シアターΧの公演の意義には賛同を保留する。フルート1、ファゴット1、ピアノの小編成アンサンブルは悪くなかった、編曲者天沼裕子さん、演出の西村洋一さんも優れている。夜の女王=パパゲーナ、パパゲーノ=ザラストロがダブルキャスト(つまり同じ人が歌っている)、今宵の夜の女王は最高音が出なかったので少し残念、残念ではないがずっこけた、パパゲーノ・パパゲーナの子どもたちが7人登場する、従って観客はその子たちの親御さん親戚、近隣の方々、出演者の関係者で占められ、私のような鎌倉から来たフリー客は殆どいなかったかと思う。

 

 前置きが長くなった、云いたいのはそんなことではない。(口直しと云っては失礼だが、帰りの電車の中からiPhoneに入っているマタイ受難を聴きながら、帰宅して曲を繰り返して聴きながらこのブログを書いている)云いたいのは両国の『魔笛』ではなく、前回の新小岩セミナーで学んだ存在論のことである。『魔笛』は近年ではグルベローヴァの夜の女王に敵うものはなく、今宵の渡邉恵津子さんだって頑張っていたのだから比べる方がおかしい(論理的ではないが)。そうではなく、私が云いたいのは「存在論」である。

 

 存在論には、存在を示す二通りの云い方がある。「〜である」と「〜がある」だが、前者は「AはBである」つまりAの内容・状態はBである、即ち「BはAである」と即座に言い直すことができる。だが後者は何かがそこに「在る」という意味で、S+V+Oの目的語(O)を持たない。何かが無いのではなく、何かがそこに在るという「驚き」は、ギリシャ哲学であり、ハイデガーが発明した概念ではない(アリストテレスだったかプラトンだったか?)。今宵『魔笛』を観て(聴いて)、グルベローヴァと渡邉恵津子さんを比べるのは明らかに前者であるが、その問いには意味がない、「〜がある」のはクレイジーな音楽家モーツァルトの「『魔笛』が在る」の文脈である。存在は、存在である限りにおいて、何かしら光り輝いて起ち上がってくる(vorstellung)存在である。それを存在了解と呼ぶ、それが新小岩セミナーで学んだことであった。

 

 ウィーン世紀転換期の誰かが(カール・クラウスだったかエルンスト・マッハかアドルフ・ロースか忘れたが)言語批判に於いてはメタフィジックス(形而上学)は邪魔だと排除したが、賛成!

 

 今宵『魔笛』を観たかった本当の理由はほかにある。前々回のブログに書いたがベルイマンである。ベルイマンの作品のなかで一番好きなのは『ファニーとアレクサンデル』ではなく『魔笛』だと書いた。ベルイマンの心の内に存在論があったかどうかは不明だが・・・。


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