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  • 2015.12.26 Saturday
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台峯日乗 94

ぽじたーの

先週月曜日から一週間、南イタリアに遊ぶ。

 写真はポジターノを見下ろす丘の上からの眺めである。ナポリ3泊、アマルフィ1泊、ローマ2泊の短い旅であったが、クレー協会恒例の「クレーの旅を訪ねる」シリーズの最後である。10年以上をかけて、チュニジア、ローマ、ミュンヒェン、シチリア、エジプトを訪ね歩きナポリだけが残っていた。1901年秋から翌年春までクレーはイタリア旅行をしているが、旅行と云うよりローマ留学と呼ぶほうがふさわしい。

 1902年3月、22才のクレーは学友と共にローマからナポリに赴き2週間ほど滞在した。近隣を歩きまわり、日記にはソレントからアマルフィまで7時間をかけて歩いたと書かれているが、私たちもその跡を追って、ナポリからソレントへ立ち寄りその夜はアマルフィに宿泊した。むろんバスで移動したから1時間半の行程である。地中海でもっとも美しいといわれる海岸線を眼下に眺めながら、途上、ポジターノの街を観た。

ヴェスヴィーオ ナポリに着いた翌日はポンペイ遺跡を訪れたが、春を売る女性たちの店舗跡の壁には交合図が残っていて、先々週、永青文庫で観た春画展の続きを観るような心持ちがした。遺跡から発掘された壁画の多くはナポリ考古学博物館に展示されている。クレーは何度も博物館へ足を運び、このような画像を熱心に観たであろう。私たちの宿はナポリ湾の西にあるサンタ・ルチアの港にあった。♪サンタ〜ルチ〜〜アのサンタ・ルチアだ。

 サンタ・ルチアから湾の対岸にヴェスヴィーオが霞んで見える。鉱物学者でもあったゲーテは、イタリア紀行の記事によれば、火口付近まで登ってつぶさに火山を観察しているが、かつてこの山は富士山ほどの高さがあり噴火で現在の形姿となったらしい。ゲーテが登っていったのも現在の形をしたヴェスヴィーオだ。

考古学博物館 考古学博物館に展示されているのは、もちろん春画ばかりではない、右のようなギリシャの神々をモチーフにした興味深い画像は近代絵画の立体性を存分に含んでいる。装飾画は実にお洒落で、同行のメンバーの誰かが、人間の文化ってぜんぜん昔のままなんですね〜〜!と仰っていらしたが、ほんとうにその通りだと思えるモダニズムなのである。クレーは旅行のあと、ポンペイ壁画を引用した小さな水彩画を数点描いている。

 クレーが旅した跡を追って、最後に残っていた目的地が南イタリアであったのだが、私には別の思い入れがあった。

 ナポリの二日目、当初の予定では街を散策して考古学博物館へ行くことになっていたのだが、朝起きると余りにも好い天気で、午前中、宿舎近くの波止場から高速フェリーに乗ってカプリ島へ行くことにした。同行のメンバーは女性8名、またしても女子会にオッサンがひとり紛れる体であったのだが、そんなことは兎も角、クレーはナポリ滞在中、カプリ島へ行った見知らぬ人に、カプリに行かないのは愚かだ、などと云われていささか憤慨しているのだが、私たちはこの機会に島を訪ねてみたのである。

 カプリにある名高い碧い洞窟は、シーズンオフのためか見物用の小舟は運航していなかったが、代わりに山へ行こうということになり、アナカプリなる高地の村までタクシーで行き、そこからスキーリフトで(スキー場がある訳ではない)峯の天辺まで登り、高所恐怖症の私にはいささか辛かったが、遥か眼下に広がる海は絶景で、エメラルドグリーンの水が穏やかであった。

カプリ島

 カプリは、1950年代、パブロ・ネルーダが政治的な事由で自国チリを逃れて滞在した島であった。ネルーダは日本ではあまり知られていない、皆無かも知れない。カプリに逃れたネルーダをモデルに映画『イル・ポスティーノ』が撮られている。スペイン語圏では無論のこと、アメリカでも良く知られた愛の詩人だ。映画公開は1994年で、たまたまニューヨークにいた私は、書店の店先で売っていたネルーダの詩を朗読したCDを見つけ、スティングやマドンナやポピュラー歌手たちが朗読してるのだが、なにゆえ私が『イル・ポスティーノ』を良く知っているかといえば、私もネルーダの詩など知らなかったのだが、この映画の音楽を作曲したルイス・バガロフとは、マジョルカ島の友人ロベルト・オテロの紹介でその数年前にマドリッドで会い、あるとき、ロベルトとバガロフと私の3人でニューヨークに滞在し、バガロフは毎日ジュリアード音楽院の図書室に通い、古典楽譜を漁っていたが、夜になると3人で食事を共にしながらあれやこれやと音楽の話をしていたからである。

 オランダの画家M.C. エッシャーに「メタモルフォーゼ供廚箸い作品がある。作品のモティーフはアマルフィ海岸で、1976年日本で最初のエッシャー展をプロデュースした私にとって(自慢話で嫌らしいが、自慢であろう)アマルフィは必ず訪れてみたかった場所であった。いま、ソレントからポジターノ(これもエッシャーに同名の作品があるが)、アマルフィに至る海岸を眺めてみて、エッシャーの絵画(版画)の現場を観ることで何かしら私の疑問が氷解するような気がしているのだが、それが何なのかはまだ解らずにいる。

 日本を発つ数日前、所用で関西に出向いたとき、大津市膳所に義仲寺を訪ね、念願の芭蕉の墓参りを済ませた。『義仲寺昭和再建史話』という本を著者の谷崎昭男先生が贈ってくださり、この機を逃すわけにはいかないと思ったからだ。

 しつこいようだが、何度もこのブログに書いてきた、

 さまざまなこと思ひだす桜哉

私にとって南イタリアの旅は上の芭蕉の句だったのである。

 

 




 

台峯日乗 93

Helmut Schmidt

ヘルムート・シュミットが死んだ、20世紀が終わったということだ。

 いまヘルムート・シュミットと云っても覚えている人は数少ないかも知れない、私は新聞を購読しないし滅多にテレビニュースも観ないから、日本で報道されているかどうか分からないが、無論、ヨーロッパのメディアはその死を大きく取りあげた。

 以前、シュミットのことはブログにも書いた、90才の誕生日を迎えた時の報道についてだったか、いや、もっと最近のことだったかも知れない、ヨーロッパからの帰りの飛行機で読んだ記事が面白くて(シュミットのことだが)その写真を掲載してブログ記事を書いた覚えがある。昨日、96才で亡くなった。100才まで生きると思っていたが、さして変わりはない、20世紀ヨーロッパのアイコンのひとつであった。1974年から82年まで西ドイツの首相を務めた。

 ハンブルグの貧しい労働者階級の家に生まれ、第一次世界大戦終結ひと月後、つまり1918年だが、少年期にヒットラーが政権に就くとヒットラー・ユーゲントに参加、第二次大戦末期イギリスに捕虜として捕まっていたとき、仲間の影響で社会民主主義に目覚めたらしい。現在のヨーロッパ通貨ユーロ(の元)を作ったのはシュミットであったし、戦後ドイツ経済復興の立役者であった。だが、そんなことはどうでも良い。昨日メルケル首相は記者会見で「彼は政治研究所そのものだった」とコメントした。

 私にとってシュミットの思い出はふたつある。シュミットに会ったことはない。ひとつは彼の喫煙とピアノ、そうだ思い出した、以前ブログに書いたのはそのことだった、好きなシガレットが製造中止になることを知った彼が何箱も(カートンではなくて大きな段ボール箱)買い占めたという記事を読んだからだ。記事を読みながら、モーツァルトの3台のピアノのためのコンチェルトを思い出していた。クリストフ・エッシェンバッハだったと思うが、かつてシュミットが3台目のピアノを弾いた。我が家の何処かにそのライブ録音CDがあるはずだ。ひゃ〜、西ドイツの首相はモーツァルトのコンチェルトを弾くんだ〜!と思ったものだ。

 もうひとつは、1970年代に私が長期滞在した北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに、その後、先師種村季弘が滞在して、村の何かのイベントの開会式の折り、ヘルムート・シュミット(首相だったが)がやって来て、挨拶をしたことがあった。第二次大戦時の兵士のときヴォルプスヴェーデ駐屯部隊にいたので、という経緯だったらしいが、シュミットが俺のすぐ近くに立っていたよと、いささか興奮気味の葉書がタネさんから届いたのを覚えている。



 

台峯日乗 92

西湖スタバ

杭州の思い出が頭に残る。

 これは西湖近隣にあるスタバ、ひゃー何だこれ!と思ったが、中味は普通のスターバックスコーヒー店であった。

册1下舗歌席
紅藕花中泊妓船
處處廻頭盡堪戀
就中難別是湖邊 白居易「西湖留別」(一行目第五字は原文では金へんだが、流石にMacBookにも入っていない)

緑の藤の木陰に歌舞の席を敷き広げ、赤い蓮のなかに妓女の船が止まる。あちこち見渡せば、なにもかも慕わしく、とりわけ別れ難いのは湖のあたり。(川合康三訳)

 本当にそうだった、日暮れて私たちは西湖に別れを告げ杭州の繁華街に行ったのだが、暗さに包まれた湖畔を歩く人々、ロマンティシズムに満ちあふれた空気、匂い、空間、雰囲気、時間・・・、これほど浪漫主義的な場所が他所にあるだろうか、絶対また行くぞー!

 中国美術学院からメールが届いた、バウハウス大学(ヴァイマール)に留学していた学生からの質問状で、私のスピーチの趣旨を確認したいと云ってきた。私に与えられたテーマ「Perception, Imagination and Design Education」のスピーチの概要はおおかた以下のようなものであった。

 私に与えられたスピーチの限られた時間の中で、ひとつの例を挙げてみたい、それは昨年ドイツのバウハウス研修旅行に連れて行ったデザイン学校の学生の一人が作ったプロダクト・モデル(授業で作ったヘア・ドライアー)なのだが、シンプルで優れたデザインだったので、あるとき学生本人に聞いてみると、それはベルリンで見学したバウハウス研究所の屋根のカタチを参照したのだと学生が答えた。(ここで学生のプロダクト・モデルとバウハウス研究所の写真を見せた)

 しかしながら、私のスピーチの目的は、学生のこの優れたデザインを強調することではない、私は過去40年間フリーランスとして多くの美術展、とりわけパウル・クレーの展覧会に関与してきたので、クレーについて少し述べてみたい。彼の『日記』からお気に入りの箇所を引用する。クレーは18才のころ日記を付け始めるのだが、冒頭に子供時代の思い出を記述している。引用するのは彼がまだ6才か7才だった頃、両親に連れられて訪れたマルレイという村での思い出である。(この引用が実に上手く読めた)

 何と美しい記述だろう、なんと洗練された文章だろうか、まるで一編の詩のように私には読める。しかしながら私の疑問は次のようなものだ、いったいこの記述は本当に彼が6才か7才の頃の旅の印象なのだろうか?クレーの日記は画家の死後17年経って、息子のフェリックスが出版したものだが、クレーは生前『日記』を自分で何度か編集し直し、3冊のノートにまとめているのだが、元々の手稿は今日失われたままである。この事を知るのは実に興味深いことである。

 6才か7才の頃、彼が小さな村で見た光景は事実に違いない。それは彼の記憶の種子なのだ(この「記憶の種子」とい言葉がが私のスピーチのキーワードだったのだが)。しかしその記述は日記を付け始めた18才の記述であり、さらに後年33才のときに推敲したものであって、今日われわれが読む『日記』は彼の創作なのである。創造とは「記憶の種子」から「詩」へと至る道程なのだ。

 ここで最初の話題に戻ろう、バウハウス研修旅行に参加した学生の一人は先ほど観て戴いたような優れたプロダクト・デザインを考案したのだが、学生たちは見知らぬドイツを訪れて、呼吸し、感じ、触り、つまりそこに生きたのだ。学生たちは興奮を抱いて旅を楽しみながら、多くの写真を撮っただろう、それらが彼らの記憶の種子なのである。やがて彼らはその記憶からデザインのアイデアを紡ぎ出すかも知れないし、それは直接的にバウハウスであるか、間接的なイメージであるか、あるいはバウハウスとは無縁の何物かであるかも知れない、しかしそんなことはどうでもいい、彼らは早晩あるいは後年、創造の糧を旅の記憶に(記憶の種子に)見出すことだろう。これこそが我々がPerceptionと呼ぶものなのである。

 以上が私のスピーチの要旨である。パワーポイントで画像を見せながらのスピーチであったから分かり難いかも知れない。文末にテキスト全文を掲載する。

 さて、私への質問状というのは、バウハウス施設群を訪れた学生の一人がグロピウス建築の形状にインスピレーションを得てプロダクト・デザインを作ったのは、禅の悟りのようなものなのか?という内容であったが、それほど高尚な話ではないだろうと即座に思ったものの、いや待てよ、私たち日本人のメンタリティーにはそれと気付かず禅の悟りのような思考が自然と備わっているのかも知れないと思い直し、あなたの感想は正しいであろうと返信をした。安岡章太郎に『幕が下りてから』という小説があるが、まさに幕が下りてから芝居が始まったの感がある。 

中国美術院(象山キャンパス)はプリツカー賞の建築家Wang Shuが作った建築群だが、初めてのバウハウス国際会議の開催とあって、たいへん失礼な云い方だが昨今銀座通りを闊歩する中国の観光客とは大いに違って「友遠方より来たる、また楽しからずや」を地で行くような心の籠もったビヘイビアであった。講師ひとりひとりに学生ボランティアのアシスタントを付けてくれた。英語、ドイツ語を理解する学生たちなのだが、私には日本語のアシスタントを付けてくれた。ワン・シャンさんという、デザイン学を専攻する実に可愛いらしい女性であった。

I am very honoured to have been invited as a guest speaker in this meaningful conference that must contribute to our activities regarding Bauhaus in East Asia in the near future.
 
 
Within the limited length of time I have been given, I would like to speak about an example of one of my students that I observed recently. 
A couple of years ago, I had an idea to plan a so-called Bauhaus Tour for students at a design school in Tokyo. I am not a teacher myself but I make lectures from time to time at the school. The purpose of the trip is to show them original Bauhaus sites in Germany. We started this program last year, and did it again this year.. We hope to continue the tour for the coming years.
 
(Image 2, 3, 4)
 
This is a product model of a hair dryer, made by a young student, one of whom I had taken to Germany in March last year together with her fellow students of the same design school. Our study trip took place in over 6 days and we visited Berlin, Dessau and Weimar, namely it was nothing but a Bauhaus tour.
 
Almost half a year later, I had an opportunity to see this beautiful product model of a hair dryer in the school by chance. I also spoke to the student and asked her impression of the Bauhaus tour we had made together months ago. So she said: Oh Mr. Shindo, did you see a hair dryer model of mine? I replied; Yes, I saw it. It’s so beautiful with simple, beautiful solid lines. Then she opened her computer in her arm to show me this;
 
(Image 5, 6)
 
As you can perhaps recognize,, this is a Bauhaus Archive building in Berlin. Needless to say it is designed by Walter Gropius, which was not actually constructed during his lifetime, but anyway, the student showed me these photographs and told me that she quoted or borrowed the shape of roof of Gropius building when she was thinking to design the hair dryer, as a task for her class, in the autumn semester.
 
 (Image 7)
 
I am, however, not willing to tell you how outstanding this product model is. It is not my purpose, but I want to say something else.
 
I have been working as a freelance curator or art exhibition coordinator / organiser for 40 years by making various art exhibitions of particularly Paul Klee but other artists as well for many Japanese museums. Klee was one of the most important artists of the 20th century but also quite an important teacher at Bauhaus.. So I would like to speak about Klee a little.
 
(Image 8)
 
In a book “The Dairies of Paul Klee”, originally published in 1957 by his son Felix Klee, namely much after the artist’s death in 1940, I found many fascinating writings of Klee in his dairy. He began to write his dairy when he was 18 years old, and at very first part of the dairy he described his memory of childhood. The following is one of my favourite parts of his writings.. It is a memory of when he visited a small town with his parents at the age of six or seven;
 
“I clearly recall a stay in Marly, near Fribourg. …..
Marvelous drawbridges. A horse carriage which was said to contain fleas. The Catholicism of the region. A procession. The sisters Küenlin, who ran the boardinghouse. Their French dialect. The hefty lady-director. Gentle Eugenie in the kitchen. The flies there. The poultry yard. The killing of these animals. The squirrel in the wheel. Downstairs, the water with its ticking mechanism. Coffee out side in the afternoon. The cosmopolitan children. Some from Alexandria, who had  already traveled on the sea in ships as large as a house (this I didn’t completely believe). A fat, brutal Russian boy. The walks in the surrounding countryside. The small, swaying footbridges. The grownups’ fright on these bridges. The man who, at the other end, said “Dieu soit béni.” The terrible thunderstorm,  during which we found shelter in an aristocratic country house. The various bowling alleys. Swimming in the brook. The high reeds. Swimming with a couple of gentlemen near a threshold-like waterfall. The sad farewell to this paradise.”
 
What beautiful writings they are! What a refined expression this is!
It is like a poem. Is it, however, really a memory of a six or seven years old boy? This sophisticated cinematic method, making us imagine one clear scene one after another by simple words. My question is this: is this his actual memoire at that age?
 
The answer is Yes and No. Klee began to write his dairy when he was 18 years old when he was a high school boy, and the dairy continued for almost 20 years until the end of World War I, December 1918 when he became 39 years old. But it’s very interesting and remarkable to know that he edited his own dairy several times before and after he finished writing it. . For instance, the first part that I’ve read now was edited in 1913 including re-writing sentences. He was already 33 years old then. He edited other parts of the dairy in 1914, 15, and 1921. The original manuscripts in three or four notebooks are missing today. So, what we read in the dairy today is not the original one but one which he edited and created by himself.
 
Paul Klee was a great reader of German and French literature from his early years. He had a good sense of writing too and it was improved year by year, I suppose. The scenes and sceneries that he saw in a small town at the age of 6 or 7 are all reality, but these beautiful sentences are what he made in later years. What he actually saw at that time such as its scenes, sceneries, and images are only seeds of memory, and seeds must grow up to a small plant then to a tree with fruits. These most beautiful lines as a poem in his dairy were indeed his creation. These are not direct description of memory of what he saw at that time in a small town but it is what he pulled out from seeds of memory in the following years as he developed himself as an artist.
 
Creativity is not copy & paste. Creating art is a process between an original idea or scene or memory that results as an art piece. A seed of memory will travel through the span of a life-time, searching for some particular place where it can become poetry.
 
Now we return to the first topic.. As we saw, a student who visited Bauhaus sites in Germany in Berlin, Dessau and Weimar last year made a wonderful product design in her classroom. During the travel to Germany, she saw so many things and took pictures, probably more than 1000 shots. They are the seeds of her memory.
 
(Image 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15)
 
And one day she may get a specific image for a product design, a fragment of an image direct from Bauhaus, , or some indirect memory from  her travels around  Germany, or perhaps something nothing to do with Bauhaus at all.
 
One of the most important and effective methods to be a good artist is simple; to be careful enough. That’s all. Here is another product design from the same student.
 
(Image 16, 17, 18, 19, 20, 21, 22)
 
Some features of the shape and image comes from Bauhaus, but not directly, because to follow Bauhaus style is not important for her. She had just experienced an exciting trip to Germany by breathing, smelling, touching, feeling, and so on., living there. She is still on the profound journey from seeds of memory to poetry. She will choose something, from time to  time, from her cabinet of memories, but at the same time she might be chosen by something too. It is her journey as a young designer.
 
For better or worse, today people can immediately get thousands of images of Bauhaus or another product and visual design by switching on their computer. But it is not a real, authentic experience at all, it is only information. You cannot create by information only. To draw on paper by pencil is not designing. To design is a more physical activity in a three-dimensional world that we are actually living in. We need atmosphere.
 
Creativity is process. It is sometimes a long and sometimes a short path from the seeds of memory toward poetry, as we saw in Paul Klee’s dairy or in the product design models. So, it is vital to educate design students by showing them actual objects and taking them to actual places. They need to experience how it feels to touch these objects.. From this point of view, Bauhaus Museum of China Academy of Art is a meaningful and respectful project, I would say. And if possible please take students to Bauhaus sites to experience Bauhaus. They will get something there or perhaps they won’t get anything, but it doesn’t matter, because not to design is also to design. This is what we call perception.





 

台峯日乗 91

杭州西湖

十月十四日西湖に遊ぶ。

 前回は詩仙堂に遊ぶと書いたから遊んでばかりいる。七月、娘と詩仙堂を訪ね、座敷に座る娘の写真から三ヶ月が過ぎた。詩仙堂から西湖はいくらなんでも出来すぎている、杭州・西湖は白楽天、蘇東坡といった大詩人等が整備した中国の一大景勝地であるからだ。むろん詩仙堂には二人の肖像画が掛かっている。

杭州ポスター 事の始まりはこの春、杭州市郊外にある中国美術學院からメールが届き、バウハウス国際会議にゲスト・スピーカーとして招待するから来てくれないかの報せだった。以前からデッサウのバウハウス財団経由で美術學院とは連絡を取っていたが、国際会議への招聘には驚いた。まぁでもいっか〜、の乗りで承諾し、8月はパリとスイスに遊び、帰国すると直ぐにテキストの準備に取りかかった。さらっと下書きをして、早稲田と東大で哲学を講ずるイギリス人の友人D.P.に、綴りの誤りや語順、てにをはを直してもらった。肝心な英文はいつも彼に見てもらう。

 果たせるかな、渡航前の一週間は毎日テキストを声に出して読む練習をし、一度として淀みなく読めなかったのが、昔取った杵柄というべきか、45年も前のことだが劇団四季の研究生として俳優の卵であったので、どうやら本番に強いらしく、当日はすらすらとテキストが読めた。そんなことは兎も角も、

杭州校舎

中国美術學院(象山キャンパス)の建物はすべて2012年にプリツカー賞を受賞した建築家ワン・シュウ(かのI.M.ペイに続き中国人では二人目だが)の作品で、学校見学だけでもわざわざ行く価値は十分にある。

杭州校舎2

 しかしながら先月、象山キャンパスの象山(という名の小高い山がキャンパス中央にある)の上に隈研吾設計による工芸博物館もオープンした。ゾウの上にクマが乗っている。

杭州西湖2 西湖に戻ろう。私が一番好きな詩人は(ヨーロッパ、アメリカ、日本も含めて)陶淵明だが、白居易の長恨歌も愛読詩のひとつだ。西湖には、京都の庭のようなソフィスティケイテッドされた緊張感は無いのだが、これまで絵画で何度も観てきた西湖十景を呼吸する気分に満たされて感激頻りであった。中国全土から集まる観光客で道はごったがえしていた。にも拘わらず、景観を味わうに十分であった。また行こうと思う。



 杭州での会議を終え、上海で三日遊んだ。ほんとうに遊んでばかりいるが大丈夫なのか、上海博物館を一日がかりで見学、疲れ切って宿舎に戻った。「永和久年・・・」で知られる筆聖・王義之の実筆の拓本があった。大感激!!!

王義之拓本

 帰国する前の晩、たまたま上海で開かれていた上海芸術祭のオープニング、上海バレエ団公演「長恨歌」を観に行ったのだが全くダメな舞台だった。白居易の原作を敷いた現代バレエだったが、がっかりした。振付をした何とか云うドイツ人は舞台(というもの)がまったく解っていなかったからである。ベンジャミン・ブリテンが謡曲「隅田川」を敷いてオペラ「カーリュー・リバー」を作曲したのとは訳が違う。

 バウハウス国際会議には15名の研究者が参加した。私自身は研究者ではないが、大半がドイツの大学教師だった。中に旧知のヴァイマル・バウハウス博物館館長ミヒャエル・ジーベンブロートとデッサウ・バウハウス財団館長クラウディア・ペレン女史がいたのでほっとした。誰でも知っている『バウハウス』の著者マグダレーナ・ドロステ教授が、スピーチの翌日、私の顔を見て「あんたの講義とても良かったわ」と云ってくれたのが一番嬉しかった。




 

台峯日乗 90

詩仙堂

洛北詩仙堂に遊んだ。

詩仙堂へ来るといつも思い出すことがある。畏友ロベルト・オテロを此処に初めて連れてきたとき、それは雪がしんしんと降る冬の日だったが、庭へ降りて、他には誰もいない日だった、小さな川の流れの橋の上で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いた一節に「自分はいま世界の中心点に立っている」があり、俺はいまそれを感じていると彼が云った。

それは先日来書いている、しつこいようだが、世界から別の世界への入口ということだろう。二度目にロベルトを連れて行ったときには、彼はそれを感じなかったという。ボルヘスの記述のどれがその文章なのか分からないが、先日、久しぶりに本屋へ行って1960年の詩集『創造者』を買った。まだテーブルに載せているだけでページを繰ってはいない。ガルシア・マルケスは好きだが、ボルヘスはより深い。

今日詩仙堂へ行った経緯はとても可笑しい。娘が8月から半年間ニューヨークのダンス学校に留学するのだが、先月末、学校からようやく入学許可状が届いて、大急ぎで学生ビザの申請をし、ビザ取得のための面接を予約しようとしたら最速で8月4日と云われ、今月末にはニューヨークへ行っていなければならない日程にはとても間に合わない。大使館に相談したところ、大阪領事館ならもっと早く面接予約が可能とのことで、では大阪で面接をしてもらうことにして申し込んだが、最速で7月21日、それもリスクだ、やむなく緊急面接の手続を取ったところ、明後日の朝8時半なら可能だと返事がきた。

昨日の夕方、娘と大阪に行き、今朝早く彼女を領事館へ送っていった。入学許可状が届いて以来、ほんとうにビザが下りるのかどうか心配で彼女はろくに眠ることもできなかった。面接はほんの1、2分で済み、来週にもビザを発給しますと面接官に云われて、朗らかな顔で彼女が領事館から出てきた。せっかく大阪まで来たのだから帰りは京都に寄ってパパの好きな場所を訪ねようと彼女に云った。

サウスフェリーからステッテン・アイランド行きのフェリーに乗って、或る日曜の朝、分厚いNYタイムス日曜版を膝に載せ、そのままマンハッタンに戻る船のデッキから朝日に輝くスカイラインを眺めていたとき、ああ、ここから世界が全部見えると思ったものだ、20年以上も前のことだった・・・。彼女がNYで暮らしているあいだ、一度は顔を見に行ってあげよう、フェリーに乗って、彼女にもそれを見せよう。


 

台峯日乗89

ドイツ

ライプツィヒからチューリヒへ帰る途中、バッハの生まれ故郷アイゼナハを過ぎた頃だろうか、北ヨーロッパの空に表情豊かな雲が広がっていた。

 真夜中過ぎ、星空の向こうに、あの世から更に向こうの世界へ行ってしまうからさよならと、母の声を聴いたというセンチメンタルなアネクドッツ(小話)の背後には恐らく、クレーの絵のことを考えていた事情が作用していただろう。というのも、例えば美学研究者たちはクレーの絵画は現実のなかにある非現実の世界を描いていると主張するが、では現実の世界のなかの非現実とは一体何だろうと腑に落ちないでいたからである。

 耄碌したせいか年齢を重ねたせいか知らないが、最近、私は眼に映る(現実の)風景を見ながら、これはただ網膜に反映された画像であり、それが脳に伝えられた情報であって、実は世界の実在はその向こう側に、目には見えない何処かにあるのではないかとの思いを強く感じていた。ある種の自然のなかでは、それが世界の実在そのものに見えることがある。人間世界の風景は余分なものばかりで出来ているからである。

 私たちの心も、記憶や忘却、(え〜と誰だったっけ『記憶と忘却』を書いたのは、モーリス・ブランショ?一行たりとも理解できなかった青春の読書だったが)愛着や嫌悪、将来(を考えること)などという余分なものだけで出来ている。あたかもそれが現実(重要性)であるかのように思い込んで私たちは翻弄される。

 時間と空間が同質であることを、これも青春の読書だが、マルティン・ブーバーから学んだ。いま、母の声の幻想を思い起こして、世界の向こうにあの世があり、その向こうに別の世界があるという観察は、やはりクレーの絵画から示唆を受けたものであろう。クレーが描いたのは此の世から見えるあの世であり、あの世から見える此の世なのだが、伸縮自在な空間と時間をメソッド(方法)として用いた現代絵画の嚆矢であろう。

 先日「クレーとカンディンスキー展」を観ながら、イメージの、現実から非現実への先駆者であったカンディンスキーがバウハウス期以降「装飾画家」となっていく消息をあらためて知ったが、1929年、休暇先のフランス南西部アンダーユの海岸で撮った二人の記念写真は、二人の芸術家が如何に時代精神を生きていたかの証左であると思えた。いま、そのことの詳細を記す力が私にはないが、真夜中の母の声はそれを云っていたように思う。

アンダーユ



 

台峯日乗 88

Evi at Auction

話が相前後するが、スイスでの要件のひとつはコーンフェルト・オークションに行くことだった。

 オークションで何か作品を競り落とす予定はなかったが、老コーンフェルトに会えるのもこの先たびたびという訳にはいかないから、今年から出来るだけ多く彼の顔を見に出掛けようと思っている。今年のオークションは比較的地味なもので、特に目立つ名品もなく、かと云って貧弱な内容では決してなかったが、いかにもプロフェッショナルと堅実なコレクターの集いの感を強く持った。

 エヴィ・コーンフェルトは今年93才、博士号を持つ歴とした美術史家でもあるが、なによりもオークショナーとしてのキャリアは世界で一番長く、今年もメインセールの後半に登場して、ときどきトンチンカンな遣り取りを交えながら、会場を笑わせ、何よりも芸術作品への愛情とは何かを身をもって示した。本来オークションとは、芸術作品と市民社会とを繋ぐ接点なのだが、昨今の経済ゲームに与されてからそれは希薄である。辛うじてコーンフェルトのところだけが僅かに古き佳き伝統の匂いを保っている。

Kornfeld dinner これも古き佳き伝統の一環だが、その日オークションに参加した人はみな、ディナーに招待される。作品を買った人も買わなかった人もおしなべて同様にご招待を受けるのである。このことがエヴィの思想を良く物語っている。かつてはコーンフェルト家の大広間で開かれていたディナー・パーティーだったが、今は人数も増えて賄いきれなくなり、ホテル・ベルビュー・パレスのサロンを借り切って行われる。今年は130名ほどだったろうか、大晩餐会であった。とても美味しかった、お腹いっぱいいただいた、デザートまではとても手が出なかった。



 老コーンフェルトのテーブルを訪ねて彼にお礼を云うと、これが93才かよ〜と思わせるほどの強い力で手を握られながら「来てくれてありがとう!」を三度も繰り返された。どう考えても逆だ、お礼を云うのはこちらの方だろう。「むかしはあんなに多くの日本人ディーラーが来ていたのに、今日はおれ一人だったね」とエヴィに云うと、首を小刻みに左右に傾けながらなんとも云えない面持ちが返ってきた。

kandinsky その前日はクレー・センターの新企画展「クレーとカンディンスキー」の内覧会と内覧会ランチに招かれ、毎日美味しい食事に招待されるハッピーな週であった。すでにクレー・センターを退職しているが、チーフ・キュレイターを務めていたクリスティーネ・ホプフェンガルトが6年もかけて制作した展覧会は実に見事で、20世紀前半を代表する二人の画家の、友情と相互の学びとライバル関係が浮き彫りにされている。晩秋から来年1月のかけてミュンヒェンのレンバッハハウス美術館に巡回されるので、私にはもう一度くらい観る機会が与えられるだろう。





 

台峯日乗 87

ゴーギャン
サマセット・モームが『月と六ペンス』で触れたゴーギャンの大作「われわれは何処から来たのか、われわれとは何か、われわれは何処へ行くのか」を初めて観た。

D'ou Venons Nous, Que Sommes Nous, Ou Allons Nous

 1990年の頃、桜井淑敏さんが主宰するRCI倶楽部の機関誌"Quatro Stagioni"にジェンダー論、論とは云えない、ジェンダーについて書かせて戴いたとき、モームの同小説を引用して「女とは何か」を考えたことがあり、しかしどうしても絵の題名が思い出せずにそのまま放置した。爾来、いつかはこの作品を観にボストン美術館に行かなければならないと期していたのだが、機会が訪れないまま25年が過ぎた。

 先週の火曜日、アートバーゼルを抜け出してバーゼル郊外リーエンにあるバイエラー財団へゴーギャン展を観に出掛け、なんと憧れの大作を目の当たりにした。会期終了間近とあって相当な人出だったが、日本で同種の展覧会が開かれると、たいがい絵など観ていられないほど混雑でごった返すが、ここではゆっくりと、25年待った感慨を味わいながら鑑賞した。モームはこれを何処で目にしたのだろうか。

『月と六ペンス』はゴーギャンをモデルにした芸術小説で(そんなカテゴリーがあればの話だ)、詳細は何も覚えていないが、画家を取り戻しにヨーロッパからやって来た女性に「彼はわたしの男です!」とタヒチの少女が小気味よいセリフを吐く場面がなかに出てきて、それがとても気に入ってエッセイに引用したのだったと思う。

 スイスでの用事を済ませ週末はライプツィヒに移動した。

Leizig_Rathaus 旧市庁舎にバッハのバナーがはためいていた。毎年この時期に開かれているバッハフェストに来る機会をねらっていたのだが、今年はじめて果たせた。日曜日の最終コンサート、バッハフェスト108番目のプログラムはロ短調ミサ曲で、どうしてもそれが聴きたくて、5月にはインターネットで切符を買っていた。手元のCDはクレンペラーの名演で、渡欧前、何度か聴き入って曲想を覚えまでしていたから、当夜の演奏は身体に染み入るものであった。

 春先、したたかに酔って真夜中過ぎにベランダで煙草を吸っていたとき、星空の向こうに母の声を聞いた。物理的に聞こえたわけではない、年を取って物忘れが激しくなり目が霞み耳が遠くなるのは自然だが幻聴が始まると先は長くないという、まだそこまで耄碌した訳ではない、母の声は声にならない声であった。母(の声)によれば、いままであの世にいて地上を見てきたが更に次の世界に入ってしまうのだという。もうお別れだわと彼女は云った。

 クレーの絵を観ていると、われわれの目に見える世界とは違った、もうひとつ向こうの世界を描いている気がしてならないのが、更に向こうの世界というロマンティシズムが私に芽生え、酩酊の底で母の声となったのであろう。さよならお母さんと私も云った。

 どなたかの葬儀に間に合うよう作曲を急いだロ短調ミサ曲は、しかしその完成がバッハの死の前年のことであり、一から順に譜面を書き上げたのではなく、曲のそこここにかつて作曲したカンタータが数多く用いられる。手抜きのように思われるかも知れないが、さに非ず、こうした自己引用と再構成こそがバッハの天才を物語っている。バッハは江戸期の人だが、その意味で彼は近代人なのである。

 バッハその人が堂内に眠る聖トマス教会で聴くロ短調ミサは格別だ。演奏に1時間40分を要する大曲は、最後まで息をつく間もなく音の空間に聴衆を誘った。終曲が始まると例によってポロポロと涙が流れた。これで私も自分の葬式を済ませたような気さえしたが、一昨年死んだ妹、昨年死んだ弟への供養でもあったろう、またここ数年の間に失った友人たちの魂をも思った。涙はしかし、バッハの崇高な芸術に触れて出てきたものでもなく、他界した家族や友人への哀しみでもない。あの世の更に向こうの世界に行ってしまう前の母と一緒に、この曲を聴きたかったと思ったせいであろう。



 

台峯日乗86

ヴェネチア

ギュンター・グラスの話を続けよう。

 私が初めて彼を訪ねたのは1975年、西ベルリンのニート通りにあるグラスの居宅だった、展覧会プロデューサーとして独立したばかりだったから、何でもやってみようと思っていた。青春期の読書は一生を決める。グラスの作品を夢中で読んでいた19才の頃、ああ俺はこの人に会うことになるなと夢想した。6年後、実際にグラスを訪ねることになったのは幸運としか云いようがない。

 グラスは59年発表の『ブリキの太鼓』で、小説家として国際的に知られるようになったが、それ以前、戦後すぐにベルリンとデュッセルドルフの美術アカデミー(デュッセルドルフ美術アカデミーはかつてクレーが教授を務めた学校だが)で彫刻を学び美術家を目指した。グラスには多くの版画作品があって、非常にユニークなものだが、その展覧会を日本で開きたいと思い、当時グラスの版画を扱っていたアンゼルム某というベルリンの画廊を探し当て、彼に手紙を書いて是非日本で展覧会を開きたいと申し出たのがきっかけだった。

 ニート通りのグラス家を訪ねた日の感激は忘れない。展覧会は翌76年だったか、77年だったか、会場は渋谷パルコ、グラス夫妻を日本に招いた。まだ羽田空港の時代だ。飛行機代はゲーテ・インスティテュート・トーキョーが負担してくれたが、日本国内の旅行費用は展覧会のマネージメントから捻出したのだったと思う。覚えていない。雑誌『スバル』『世界』『朝日ジャーナル』で特集を組んでいたので数日は東京にいたのだが、それから彼らを連れて四国旅行をした、いや違う、四国旅行をしてから東京に戻り、それから雑誌の取材やら、大江健三郎との対談やら、朝日講堂での講演会やらが開かれたのだった。四国旅行をしたことに特別な意味はなかったのだが、何となく勘で高知へ行った。これが大江健三郎を喜ばせることになる、まあどうでも良い。グラスが日本へ来る前、私は大江の小説の英語訳をグラスに送り、彼はそれを熱心に読んでから日本へ来たので、大江はグラスとの対談でグラスから小説を評価され、その後フランクフルトのブーフメッセでグラスとの対談の機会に恵まれ、やがて大江のノーベル文学賞受賞へと繋がっていく。このことは誰にも話していない。

 ダンツィヒ三部作『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』が私の青春の読書だが、高知桂浜の何とかいう有名な旅館に5泊しながら、毎日、西へ東へとレンタカーでドライブし、海岸へ下りては近所の魚屋で買った食材を焚き火で料理して楽しく過ごした。それが『ブリキの太鼓』の一場面そのものだったと、後日、高本研一先生から指摘され、ああそうだったのだと納得したのだが・・・。

 高本先生は、私が尊敬できる「数少ない」大学教師のお一人で、浦和高校(走り高跳び選手)→東大文科三類→都立大教師の、絵に描いたような秀才でいらっしゃるが、ほんとうに可愛がって戴いた。青春の読書で、高本先生訳のグラスを読んでいなかったら私はまったく別の人生を歩んでいたのだと思う。

 昨日グラスの死を電話で報せてくださった飯吉光夫さんと高本さんと三人で、羽田空港にグラス夫妻を迎えにいった。帰国するときもそうだった。飯吉先生はパウル・ツェランとグラスの詩の翻訳者、お二人にお世話になって私とグラスが繋がったのだった。

 日本旅行に来た頃、グラスは前妻アンナと別れて間もなかったが『ブリキの太鼓』を献呈したアンナ・グラスはバレリーナで、そのためダンツィヒ三部作にはバレエの話がたくさん出て来るのだが、日本に来たときは新しい伴侶ウテを伴っていた。ウテはベルリンの教会のオルガニストで、どのように彼らが出会ったかという話を四国旅行のときに聞いた気がするが内容は忘れてしまった。

 私がグラスとの行き来で最も幸せだったのは、展覧会の翌年だったか、グラスがベルリンを引き払ってドイツ北部の農村に移住し、19世紀に建てられた古い農家を改装したものであったが、その家を訪ね4、5日逗留させてもらったあの時だ、いろいろ思い出はあるが、ちょうど彼は次作『ひらめ』を執筆中で、最上階のアトリエに私を連れて行き、俺はこうやって小説を書いているのだと、彼が言葉を紡ぎ出す現場を見せてくれたことだった。昨日書いたように詳細は拙著に記したので、ジジイのように同じ話題を何度も繰り返して書くのは止めよう、いや、正真正銘のジジイなのだが。グラスの思い出を書いていると止め処ない、20代のことだ。ウテにはお悔やみの手紙を書こうと思う。

 昨年のクリスマス、イヴとクリスマス当日、ヴェネチアにいた。夢のような旅であったが、観光客相手のヴィヴァルディ『四季』を聴きに行った、だが、ヴィヴァルディが生きていた時代、たぶんヴィヴァルディもあのようにして夜毎貴族の家で演奏していたのだろうという気がしてむしろ楽しかった。クワトロ・スタジオーニを身近に感じた瞬間だった。それからアッシジへ行った。ヴェネツイアを発つ朝、船着場で海が綺麗だった(写真)。






 

台峯日乗85

Guenter

ギュンター・グラスが死んだ。

先ほど飯吉光夫さんから電話を戴いた。「おい、グラスが死んだよ」「え、何歳になってましたっけ?」「87歳だったってドイツの新聞で配信された」しばらく話をして電話を切ってから、1分後、NYのマシュー・プライスからメッセージが送られてきて「マコト、もう知っているかも知れないが貴方には悲しいニュースだ、ギュンター・グラスが亡くなった」

 昨年9月、娘とドイツ旅行をした帰りの飛行機からオーロラが見えて、それを掲載したブログを最後に何も書かないでいた。正直云って、もう私には文章を書く意欲が消え失せたせいか、おーいオーロラのピンボケ写真が載ったままだぞー!と友人たちにも云われ、半年以上ブログが書けずにいた。

 私とグラスの出会いと経緯については、20年前の拙著『芸術の非精神的なことについて』に詳述したのでここでは繰り返さないが、飯吉さんが電話で「高本さんも死んでるし、日本でグラスの友人と云えるのは俺とあんたぐらいだからな」と仰っていたが、生意気かも知れないが、私も先月65歳になって立派な初期高齢者なのだから生意気もくそもない年齢で、確かにその通りだ。高本さんとは、グラスの小説をお訳しになった高本研一先生のことで、私の恩師だが、いや高本さんの学生だったのではなく、私の恩師としか云いようのない人である。

 不思議だ、終日、北鎌倉の家に居て、氷河期のような季節外れの寒さを嫌いながら、ふとギュンター・グラスのことを思い出していた。最後に会ったのはちょうど10年前だった。その日リューベックの彼の事務所を訪ね、私を見るなり「なんと俺は77才になってしまった!友よ!」とニコニコ笑いながら久しぶりの再会を歓迎してくれた。クリスマス・マーケットの時期だった。

 日本の新聞にも明日の朝刊には死亡記事が出るかも知れない。が、現在の日本にはグラスの読者などいない。大江健三郎が追悼記事を書くかも知れないが、私は万延元年のフットボール頃までは大江の愛読者だったが「私は戦後民主主義なのでご辞退します」との文化勲章辞退記者会見を知ってから大江は嫌いになったので、それを読むこともあるまい。何とかいう大学教師が岩波からグラスの評伝を出していたがスッカスカで批評する気にもなれなかった。

 グラスは自伝『玉ねぎの皮を剥きながら』を出版する直前、記者会見で「実は私は戦時中ナチスSSのメンバーだった、しかしあの時代、少年たちはみな疑問も抱かずナチスに従属することは自然だった」と吐露して、「私のノーベル文学賞がそれで剥奪されるなら、それでも構わない」とヤンチャな発言をして、世界中のグラス評価を二分させた。あの人ならやりかねないわよと、その頃の私のパートナーがぽつりと云っていたが、そんなことはどうでも良い、グラス文学の価値は今後の歴史が判断することであるし、私には青年期の読書の重要な文学であったから、評価など二の次なのだ。

 ちょっと目が覚めた、これからは余り間を開けずにブログを書くことにしよう。
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